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- 五分一村(近世)とは
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五分一村(近世) 江戸期~明治8年の村名会津地方北部,濁川西岸に位置する耶麻【やま】郡のうち古くは加納荘に属したという会津藩領五目組に属す村高は,文化15年の村日記(県史10下)では517石余,「天保郷帳」516石余,「旧高旧領」525石余当村の西部にある曹洞宗大用寺の山号が譲屋【ゆずりや】山と称することから,江戸初期までは譲屋村に含まれていたものと思われる(新編会津)化政期の家数34軒(同前)大用寺はもと村の北西部の山の上にあったが,宝暦年間に山崩れのため,移転した神社は天神社明治8年譲屋村・細屋村と合併して三谷【みたに】村となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
五分一村(近世) 江戸期~明治初年の村名相模国大住【おおすみ】郡のうち大磯丘陵の中央部に位置し,村内を葛川が流れる寛永10年・元禄10年・幕末ともに旗本田沢氏知行村高は,寛文年間の三郡高帳によれば先高137石余・今高125石余,「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに125石余「新編相模」によれば,江戸から18里余,東西3町余・南北7町余,家数29軒,寺院は曹洞宗珠泉院また当村は足柄上郡との境に位置し,足柄上郡の井ノ口村と隣り合っている飛地が井ノ口村・久所【ぐぞ】村内にある明治初年井ノ口村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」