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下宿村(近世) 江戸期~明治30年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
下宿村(近世) 江戸期~明治12年の村名伊都【いと】郡のうち紀ノ川中流右岸に位置する地名は隅田【すだ】荘上宿村に対して名づけられたという(続風土記)和歌山藩領知行所丁ノ町組に所属村高は,慶長検地高目録では「宿村」と見え,181石余,ほかに小物成2斗余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに186石余宝永5年の丁ノ町組指出帳(中谷家文書)によれば,村高182石余,反別は田7町8反余・畑9町7反余,家数70軒・人数322,牛5,池6・井手1,川船3,山4であったまた「続風土記」によれば,田畑高186石余,家数63軒・人数301,村内に古城跡があった当村と滝村,那賀郡静川荘村々との間に山論があった文政6年には干害がひどく,夏には伊都郡でも全域で騒動が起こり,当村にも波及したという(口五郡百姓騒動実録/県史近世3)神社は八幡宮・若宮・小社寺院は浄土真宗本願寺派極楽寺ほかに薬師堂1宇明治4年和歌山県に所属同6年には戸数82,男202・女185同9年の旧反別18町余,新反別22町4反余,増加反別4町4反余(松山家文書)同12年高田村となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
下宿村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
下宿村(近世) 江戸期の村名伊都【いと】郡のうち丹生【にう】川上流域に位置する地名は,往古の富貴【ふき】村の八幡宮前での弓始めの際,当村の者が矢取をすることを例としたことによるという高野山学侶領村高は,「天保郷帳」では14石余なお「古者摩尼之内」と注記されており,摩尼村(西峰村)から分村して成立したものと思われる「続風土記」では,東宿村・西宿村と分けて記されており,家数・人数は,東宿村6軒・19人,西宿村5軒・17人,神社は東宿村に八幡宮・狩場明神社・地蔵社の小祠3社,西宿に牛頭天王社・八王子社・狩場明神社の小祠3社がある江戸末期に東宿地域が北宿村に,西宿地域が南宿村と,それぞれ改称... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
下宿村(近世) 江戸期~明治9年の村名中通り中部,釈迦堂【しやかどう】川下流右岸に位置する岩瀬郡のうち古くは牛袋【うしぶくろ】荘川中郷に属したという古代・中世には宿駅があり,中宿とともに栄えた奥州街道の改修に伴い,当村の町家を旧須賀川城内搦手・三の丸に移し北町とした(野川本藤葉栄衰記)はじめ会津領,寛永20年白河藩領,寛保元年からは越後高田藩領村高は,文禄3年の蒲生高目録で339石余,古領高長では558石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに645石余延享3年の家数53軒・人数327(矢吹家文書)助郷は奥州街道須賀川宿に出役鎮守は御所大明神,寺院は天台宗宝来寺明治9年中宿村と合併して森宿村となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」