ケータイ辞書JLogosロゴ 相俣(中世)


群馬県>新治村

 戦国期に見える地名。利根郡のうち。相又・相間田とも書く。永正7年と推定される年未詳8月3日の上杉憲房書状写(武家事紀/県史資料編7)に「長尾左衛門入道伊玄(景春)起逆心,彼同名六郎致一味,沼田之庄エ打入,号相俣地ニ令張陣候間」と見え,上杉氏に反旗を翻えした長尾景春が当地に陣を張ったことが知られる。下って天正8年5月19日の真田昌幸条書(吉川金蔵氏所蔵文書/同前)に「城近辺知行之儀,申届候処ニ,除相又,宮野村可借給之由,本望候」と見え,沼田城攻めのため猿ケ京宮野城に拠った小川可遊斎に対して一時的に預け置かれた地の中から,当地は除外されていたことがわかる。「梅花無尽蔵」によれば長享2年10月1日に万里集九が当地に宿をとっており「且出沼田宿上野之相間田,太半山路,逆施之亭主酔中発狂,打著其妻,于時雨俄降,施屋少々漏滴」と見える(続群12下)。また同じく長享年間に成立したと推定される「旅宿問答」には「齢廿余リ,ミコノ,ハタニハ紅ノ帷ニ……相俣宿ニテ一目見シヨリ,心雲井ニ浮宕(名カ)レテ,胸ノ聞屋ト長井坂」と見え,当地が越後に通じる街道上の宿となっていたことが知られる(続群33上)。また「廻国雑記」によれば,「あひまた・湯の原・池の原などいふ所を分行侍けるに」と見え,文明18年の夏頃に道興准后が当地を通ったことが知られる(群書18)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7281230
最終更新日:2009-03-01




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