ケータイ辞書JLogosロゴ 赤石郷(中世)


群馬県>伊勢崎市

室町期〜戦国期に見える郷名佐位郡淵名荘のうち享徳4年2月日の岩松持国闕所注文(正木文書/県史資料編5)に「同国(上州)赤石郷」と見え,岩松持国が欠所地として注文を出し足利成氏に認められた所領の1つに当郷がある享徳の乱で当郷は成氏方と上杉方の軍勢が争った地域で,後欠で年月日未詳の赤堀政綱軍忠状写(赤堀文書/県史資料編7)に「翌年(享徳5)正月七日……同正月廿四日殖木・赤石へ御敵出張之間,馳合致合致(ママ)合戦」とあって,当地などに出てきた上杉方の軍勢を足利成氏方の赤堀政綱が迎え撃ち合戦となっている永禄4年と推定される年未詳2月25日の北条氏照書状(永野清氏所蔵文書/同前)には,「北敵出張,既至于赤石陣取之由聞候」と見え,小田原北条氏と敵対していた上杉謙信の軍勢が当地に陣取っている永禄4年と推定される年未詳5月8日の由良成繁書状写(三方会合所引留/同前)には「赤石之郷,為御神領進納申候」とあり,同8年と推定される年未詳11月7日の由良成繁書状写(同前)にも「赤石之事,要害ニ就致再興度……赤石再興之儀先以当年者延引之……赤石之常年土貢少分先相渡」と見え,由良成繁は当郷を伊勢神宮に寄進したが,要害の地であるので替地を寄進し当郷を返してほしいと三日市大夫次郎に申し入れているそして永禄9年閏8月日の由良成繁・同国繁寄進状写(同前)によれば,「斎(佐位)庄之内赤石郷」は先年の立願として伊勢神宮に寄進したが,そのかわりに今般の立願として「那波郡之内神人村,都合百二十貫文之地」を寄進している元亀2年と推定される年未詳11月18日の由良成繁書状(鑁阿寺文書/県史資料編7)には,「重而越衆赤石張陣」とあり,越後上杉勢が当地に陣を張っている天正2年と推定される年未詳3月22日の上杉謙信書状写(歴代古案/同前)に「南衆赤石表在陣中」とあり,同年と推定される年未詳4月16日の上杉謙信書状写(同前)にも「向赤石,号今村与地取立候」と見えるこの年の上杉勢の攻撃は同年と推定される年未詳5月30日の上杉謙信書状(田中文書/県史資料編7)に「赤石・新田・足利迄誠ニ奇麗ニ田畠共ニ七尺返候,はやばや弱もの落来申分者,地下人ハ不及申,給人迄利根南へ妻子を引連落」というように,徹底したものであった同年と推定される年未詳霜月9日の足利義氏書状(由良文書/同前)に見える「輝虎赤埴陣致退散由」は,当地の陣を上杉謙信が引きはらったことをさすものかと思われる天正14年9月3日の北条家朱印状(小島文書/同前)には「西(佐位)之庄中村・赤石手作分之内弐拾貫文」と見え,小島藤右衛門尉に与えられている伊勢崎の地名の由来として,当郷を伊勢神宮に寄進して武運長久を祈り当郷名を伊勢崎と改めたという説や,現在の前橋市飯土井町にあった赤石城内に祀られていた伊勢神宮を元亀元年に郭外に遷してから,伊勢崎という地名が起こったとする説があり,郷域は現在の伊勢崎市街地から前橋市の一部にかけての地域と推定される
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7281257
最終更新日:2009-03-01




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