ケータイ辞書JLogosロゴ 赤岩郷(中世)


群馬県>千代田町

 鎌倉期に見える郷名。邑楽【おうら】郡のうち。「吾妻鏡」仁治2年6月28日条に「本夫遺領上野国赤岩郷」とあるのが初見で,この日の臨時評議の際故佐貫時綱の養子時信の訴えていた時綱の後家藤原氏の改嫁による当郷の領掌の件について,裁許が下され,式目以前の改嫁であるとの理由で後家藤原氏に領掌を認めている(国史大系)。佐貫氏は秀郷流藤原氏で,佐貫荘の開発領主であった。下って,嘉暦3年4月8日の三善貞広寄進状案(長楽寺文書/県史資料編5)によれば,貞広は佐貫荘内高根郷弘願寺に対して同荘内外の9か所の地の名田畠を寄進しているが,同寄進状案に添えられた弘願寺寺領注文案(同前)の内に「同(佐貫)庄内赤岩郷内名田畠」と見える。貞広はこれらの所領を窮乏化した御家人層から買得によって入手したものとみられる。下って,戦国期の「永正十五年道者日記」(県史資料編7)によれば,「あか岩」の住人として「うちた弥二郎」「同さくの大郎」「やとう」「けんこ五郎四郎」「藤七」などの人々が殿の尊称付で記されているが,これらは在地領主と思われる。永禄6年5月28日の広田直繁判物(武州文書/埼玉県史資料編6)によれば,武蔵国太田荘養命寺は「赤岩光恩寺」の一旗の末寺であったという。光恩寺は弘法大師開基と伝承される真言宗の古刹で,鎌倉期の作という阿弥陀三尊像が安置され,境内には地蔵を描いた画像板碑がある。赤岩の地は利根川の渡河点で,永禄10年と推定される年未詳極月2日の上杉輝虎書状案(歴代古案/県史資料編7)によれば,「伊勢氏政父子,号赤岩地ニ懸船橋,利根川取越」とあり,北条氏政の軍が当地に船橋をかけて渡河している。また,天正2年と推定される年未詳3月28日の上杉謙信書状(中山小太郎氏所蔵文書/同前)によれば,同年には上杉謙信が武蔵国羽生城救援のため当地から渡河しようとしたが予定を変更したことが知られる。下って,同12年6月14日の北条氏直充行状(原文書/同前)によれば,この文書は宛所を欠くが,小泉城の富岡氏宛と考えられ,同氏に対して館林領・和田領などの地を宛行っており,その中に「館林領之内 赤岩」と見える。同年館林城主長尾顕長は兄の金山城主由良国繁とともに小田原北条氏のため幽閉され,両氏と小田原北条氏は合戦となったが,両城の中間に位置した富岡氏は小田原北条氏に従って戦っており,この充行状が発給されたのである。両氏とも翌年までに小田原北条氏に降伏したが,天正13年正月14日の長尾顕長宛北条家朱印状(長尾文書/同前)によれば,「川北其方領分赤岩・さかまき船越,河東在陣之間者,堅可被停止候」とあり,小田原北条氏は顕長に赤岩・酒巻(現埼玉県羽生市)間の船渡往還を禁止し,船橋1か所の定置を命じていることがわかる。顕長はこれを受けて同年と推定される年未詳正月18日の判物(同前)で家臣の小菅・宮内両氏に「赤岩船渡」の禁止を命じている。結局,前記の充行いは実行されず,当地は依然顕長の所領だった。なお,室町期に成立しその後書き継がれた「鶏足寺世代血脈」には「一,第廿九祖師尊誉上野州佐貫庄赤岩光恩寺開山也」「上州佐貫庄赤岩無量寺院」などと見える(県史資料編7)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7281260
最終更新日:2009-03-01




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