ケータイ辞書JLogosロゴ 赤岩村(近世)


群馬県>千代田町

 江戸期〜明治22年の村名。邑楽郡のうち。はじめ榊原氏領,寛永年間幕府領となり代官曽根氏支配,寛文元年館林藩領,天和2年再び幕府領となり代官室賀氏支配,元禄12年一部は幕府領,他は旗本春田・三枝・竹川・宮崎・瀬名(途中から瀬庄)・細井氏の相給。検地は慶安3年に,承応・寛文・延宝年間に新田など検地が行われた(千代田村誌)。村高は「寛文郷帳」1,842石余うち田方728石余・畑方1,114石余,「元禄郷帳」2,005石余,「天保郷帳」2,019石余,「旧高旧領」2,018石余。村の規模は東西20町余・南北33町余(県邑楽郡町村誌材料)。用水は渡良瀬川から休泊堀で引き,さらに天保10年利根川から利根加用水を引き入れた。利根川沿岸に位置するためたびたび水害に遭遇,寛保2年破堤100間・天明3年破堤500間・天明6年破堤130間・文政11年破堤間数不詳(千代田村誌)。江戸期から盛んであった河川交通は江戸と中山道倉賀野間の中継地点で河岸は坂東16渡津の1つに数えられ,古くは天正年間に北条氏が渡船を禁止した。江戸からの大船荷物を積みかえて上流の河岸へ引きあげる人足は隣村舞木・対岸葛和田村三か村組合があたった。渡船は文政8年書上(筑比地家文書/千代田村誌)に武家・出家は無賃,他は1人16文,馬1疋24文,近村の者穀物少々。馬渡船は長2丈7尺余,歩行船長2丈2寸。渡守の給金は1年金5両。文久3年道中奉行所への文書(同前)に「諸家様御手船・御廻米御用荷物,上州筋河岸々々の諸品江戸表運送の高瀬船数百艘通船いたし」とあり,河岸は問屋・馬つなぎ場・茶屋・居酒屋などでにぎわった。この渡しは中山道鴻巣・熊谷に通じ例幣使街道八木・梁田への道で日光脇往還継立場でもあった。明治初期の赤岩河岸運船192艘(県百年史)。鎮守は八幡神社,寺院は真言宗光恩寺・曹洞宗安楽寺があり,明治初期真言宗弘永寺は廃寺となった。幕末の改革組合村高帳によれば,小泉村寄場組合に属し,7給の村で高1,935石余,家数187。明治4年館林県,栃木県を経て,同9年群馬県に所属。明治6年公立小学校東寧学舎を安楽寺を仮用して設立,最初の就学者は男45・女6で,同10年生徒数108うち男76・女32。同22年大部分は永楽村の大字となるが,一部は富永村に編入された。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7281261
最終更新日:2009-03-01




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