ケータイ辞書JLogosロゴ 吾妻荘(中世)


群馬県>吾妻町

 鎌倉期〜戦国期に見える荘園名。吾妻郡のうち。建久5年正月28日の下屋五学坊譲状(上野下屋文書/鎌遺707)に「上野国くまの郡吾妻庄三原村滋野下屋しゆうけん守護こけ之ふてう公事なり」と見え,子々孫々に至るまで進止するよう定めている。なお,「くまの郡」は熊野郡・群馬郡などと考えられるが俗称とも推定され,未詳。康永3年卯月上旬の年紀を有する宗本寺宝篋印塔銘(県史資料編6)には「上野国吾妻庄河戸村内,山田住人大檀那四郎二郎入道奉造立也」と見える。貞治元年10月3日の萩原賢秀譲状案(下屋文書/県史資料編6)には指出に「上野国吾妻庄三原村萩原賢秀」と見え,二所先達の旦那を大輔侶に譲っている。また,応永20年7月25日の薩摩聖心旦那譲状(同前/県史資料編7)には「上野国くまの郡吾妻庄三原村下屋のさつまのはうゆつり状次第事」と見え,淡路房に二所先達の旦那を譲っている。下って天文6年7月16日の日向見薬師堂棟札(中之条町誌)には「上野国吾妻庄四万村日向見」と見える。当荘は,吾妻郡が荘園化したものと推定され,吾妻町川戸,嬬恋【つまごい】村三原,中之条町山田・四万・日向見【ひなたみ】などを含む吾妻郡一帯に比定されるが,鎌倉期西吾妻一帯は三原荘とも称され,南北朝期の「神道集」には山代荘が見えるが,詳細は不明。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7281269
最終更新日:2009-03-01




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