ケータイ辞書JLogosロゴ 秋畑村(近世)


群馬県>甘楽町

 江戸期〜明治22年の村名。甘楽【かんら】郡のうち。はじめ小幡藩領,慶長6年幕府領となり代官中野氏支配,寛永10年旗本渡辺氏領となる。慶長17年の秋畑村の見取検地帳(増田家文書/甘楽町史)によると,年貢永36貫余うち同年増分12貫余,年貢の高額者5人の永高7貫余・分付地600文で計8貫余となり,全体の約22%となる。村高は,「寛文郷帳」で畑方のみ248石余,「元禄郷帳」248石余,「天保郷帳」「旧高旧領」も同高,幕末書出しによると,すべて畑で反別118町2反余,納永117貫余(甘楽町史)。石高制による検地は享保6年まで行われず,同年春,地頭所役人4名が名主5名の案内で,全村の縄入れを行って,地押・畑の位付(等級)を定め,石高制に移行した。しかし,位付の仕方や年貢の高騰に対し,村民は同年7月訴訟状を提出している。また,寛永年間には富岡瀬下村との間で宇那禰山の秣場相論が起き,寛永16年に旗本渡辺氏の直判証文による申し定めが行われた(高橋家文書/富岡史)。宝永8年再び山論が起こり,正徳4年に幕府の裁許によって境界が定められ(甘楽町史),当村70名と富岡村名主らとで3か条の申合書(高橋家文書/富岡史)が交わされた。その他,元禄8年には上日野村・下日野村・金井村の3か村と入会をめぐって山論が起きている(小此木家文書/甘楽町史)。宝永3年猪・鹿が繁殖し,被害が大きくなったため,鉄砲持主19名がその使用を願い出ている(増田家文書/同前)。幕末の改革組合村高帳によれば,小幡村寄場組合に属し,高248石余,家数280。明治元年岩鼻県,同4年群馬県を経て,同6年熊谷県,同9年群馬県,同11年群馬県北甘楽郡に所属。明治初年の物産取調書(同前)によると,物産は大麦・小麦・大豆・小豆・粟・黍・稗・蕎麦・荏・菜種などのほかに生糸・漉紙・漆・独活・蕨・薪・炭・屋根板・柴・酒などがあげられる。また秋畑紙は有名で,江戸初期小幡藩も奨励し,中世末の漉き方が最近まで受け継がれていた。慶応4年の紙舟役は125艘で漉紙およそ500貫(同前)。神社は稲含社や野栗社などがある。曹洞宗西光寺・泉竜寺・天徳寺は宝積寺末,天台宗養学寺は長厳寺末。共立秋畑学校は明治7年4月開校で,村の西南字那須廃高林寺に設置され,生徒数男30・女4,同11年では男21・女3。峰城跡が村の北字峰の山上にあり,城山ともいう。山上東西30間・南北15間で西北および東方は堀跡,東北直に国峰村城山を指すとある。同22年市制町村制施行による秋畑村となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7281292
最終更新日:2009-03-01




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