ケータイ辞書JLogosロゴ 阿佐美郷(中世)


群馬県>笠懸町

 室町期に見える郷名。新田郡新田荘のうち。享徳4年閏4月吉日の新田庄田畠在家注文(正木文書/県史資料編5)に「あさミの郷 田四町一反卅たい 畠四町三反廿たい 在家七う」と見える。次に室町期と推定される年月日未詳の鑁阿寺文書目録(鑁阿寺文書/栃木県史史料編中世1)によると,永安寺殿御判の文書として「一,永安寺殿御判……阿佐美鳥形寄進状 壱通,并施行 壱通,大石遠江正顕請文 一通,尾崎請文 一通,御奉書 一通,〈尼崎方〉并渡状 二通,両使渡状 一通,此外切紙三,折紙二,以上合卅二通」とあって,鎌倉公方足利氏満が鑁阿寺に「阿佐美鳥形」を寄進し,大石・尾崎両氏がこれを打ち渡したものと考えられる。足利氏満は応永5年に死亡しており,それ以前であろう。応永11年4月7日の新田庄内惣領知行分注文(正木文書/県史資料編5)は新田荘内の公田100町の注文であるが,このうちに「上阿佐美郷」が見える。公田に関しては応永22年8月10日の称光天皇御即位要脚段銭催促状(同前)に「阿佐美八町六段四十代」と見え,対桿によってきびしく催促を受けている。さらに享徳年間以降のものと推定される年月日未詳新田庄知行分目録,同じく年月日未詳の岩松持国知行分注文,年月日未詳の新田庄内岩松方庶子方寺領等注文などによると,当郷は惣領である岩松持国と庶子の田中民部大輔とに半分ずつ領有されていたことがわかる(同前)。このうち,持国方が上阿佐美郷となっている。戦国期においては,「長楽寺永禄日記」永禄8年4月26日条(長楽寺所蔵/県史資料編5)によれば,義哲は熊寿(長尾顕長)の端午帷子仕立の件を依頼に助六を遣わし,「アサミニト云程ニカノ地ヘコス」と記している。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7281321
最終更新日:2009-03-01




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