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「新町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

新町(近世~近代)


江戸期~昭和42年の町名江戸期は城下町伊勢崎の町人町「伊勢崎風土記」に町名が見える(県史料集2)伊勢崎城の東を南北に走る道沿いの町で,北は紺屋町が続き,南は東西...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7281405]
関連項目: 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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新町(近世~近代)

江戸期~昭和56年の町名のち西新町ともいった多度郡多度津村のうち多度津城下の1町桜川河口の左岸,古港の雁木をあがって浜町から南へ門前町通りへ入り,すぐに西側に折れて白方道に向かうと新町通りに出る河口の港の川筋に浜町の町並みができ,それから街道沿いに新町・新地・角屋町・門前町と商家の家並みが発展したのであろう当町を通り抜けて白方道が多度津山を越える弁天坂のそばに常夜灯があって,文化8年魚中買中より熊手八幡宮へ奉献と記されている東浜新地からこの通りにかけては古くから魚の棚ともいわれ魚店のあったところで,藩の塩蔵がある「西讃府志」にいう魚問屋6軒はいずれもこの付近にあって,それは柴屋・浜屋・佐柳屋・舛屋・尾道屋・高見屋といわれる新地恵美寿社脇に魚役所すなわち藩直営の魚市場があった魚方役所を設けて漁師から魚介類を買い上げて仲買人に売りさばき,運上銀を徴収することが魚役所の重要業務で,藩庁から毎日魚方役人が出張したという天保10年藩に収められた魚方口銀は34貫余で上納銀105貫余の3割強を占め,石高に直して3,800石という(魚方勤方日記)明治21年多度津村戸長大久保正史から仲多度郡長豊田元良への上申書によれば,多度津村字西組吉田孫兵衛名義で営業している魚市場は,大久保正直(はじめ清八)・菅五平らの名義にかわっても実際には京極氏の商業であったが,明治15年の売上金2万5,840円余,同16年は1万7,640円余と徐々に衰え,今年の売上金高は7,000円内外にすぎないとあって魚市場の営業不振・売上高減少に保護を上申している寺院は法輪寺,聖光山利生院と号し真言宗道隆寺末,本尊は焔魔王,正観音・大日如来・子守観音があるまた境内は東西16間・南北14間,道隆寺温故記に「寛永14年春多度津焔魔堂入仏供養導師宥遍執行」とある焔魔堂裏手に小高い山10坪ばかりに鎮守三日月神社を祀り,三日月山というむかし焔魔堂境内にやぐらを組み盆踊りで大いににぎわったという同23年多度津町多度津に含まれ,同町の通称地名となる昭和56年本通1~3丁目となる

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

新町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は唐津【からつ】城下の1町町田川左岸,城下町の中央部に位置し,東は八百屋町,西は弓町に接する唐津十七か町の1町で内町のうち築城時の12か町に含まれず,惣行事や惣町月番になることができなかったこのため,慶応3年に諸役負担の嘆願を行ったが許されなかったはじめは下級武士の居住地であったが,漸次職人たちが移り住み,町人町となった文化年間頃の町筋は南北1町26間,古来本軒37,当時人数176(男92・女84),引合五人組56人,うち町年寄2・組頭2・大工棟梁2・酒屋1・糀屋2,寺に正円寺・安浄寺がある(松浦拾風土記)法水山正円寺は浄土真宗本願寺派,名護屋山安浄寺は真宗大谷派で,ともに名護屋六坊の1つ(松浦拾風土記)文化年間には彦山派山伏の覚源がいた(唐津拾風土記抄)南端の稲荷社はもと庄崎山観竜院という彦山派山伏がいたといわれ,文化年間の覚源も観竜院の山伏であったと思われる北端は名護屋道に接する浄泰寺前の広場をなし,明治中期頃まで市が立ち,周辺には商人が住んでにぎわいをみせた江戸末期には大工が多く居住し,文化年間には大工棟梁の定八がいた(松浦拾風土記)寛政11年の町火消し組は石崎支配組に所属(諸事控/唐津市史)当町の曳山「飛竜」は弘化3年中里守衛重広が製作し,7番曳山明治元年の軒数59・人数167(唐津市史)藩領最後の町年寄は前川仁兵衛・石田伊左衛門(旧藩制ヨリ伊万里県マテノ諸控/県史)明治3年の株仲間筆頭(株主支配)には酒屋仲間に石田伊左衛門,糀・醤油仲間に前川仁兵衛,呉服屋仲間に山口嘉右衛門がいた「明治11年戸口帳」によれば,唐津町のうちに「新町」と見え,戸数52・人口196明治22年唐津町,昭和7年からは唐津市に所属明治22年から昭和22年までは大字唐津のうち大正4年の戸数38・人口220世帯数・人口は,大正14年50・275,昭和5年54・241,同35年86・368,同41年86・328...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

新町(近世~近代)
江戸期~昭和41年の町名江戸期は出羽国山本郡(寛文4年まで檜山郡)能代湊【のしろみなと】のうち秋田藩領町立ては寛文年中(聞見録)町名由来は後【うしろ】町(弘治年中町立て)の南方に新しく町立てされた意と推定される戸数は「享保郡邑記」で67軒ほかに寛延3年で三郎兵衛・儀左衛門2軒とあり,新町付近に屋敷があったと考えられる能代五町組制では柳町・稲荷町とともに後町組元禄7年地震の被害は不明であるが,近接の稲荷町は焼失宝永元年地震で新町の両側に全壊・半壊が出たが,出火はなく,待避地となるのち復興享保7年絵図で北は後町と,南は鍛冶【かじ】町と直角に交差町屋敷の記事は北側のみ享保13年絵図では新町記事なく「同」とのみあり,町屋がそろう寛保3年西の清助【せいすけ】町から出火,新町は類焼と推定されるが,地続き南方の鍛冶町は免れた翌延享元年,道路3間を3間3尺5寸に拡幅,新町惣五郎・七兵衛・市左衛門・太左衛門屋敷を通り柳町沼まで総長60間の堰を造る(能代改正旧記)寛延3年町役出銭は138貫文余表間口総丈数100丈余文化2年新町片側丈数75~77間余除屋敷は御扶持大工伊右衛門・惣兵衛,ただし文化13年以降町屋敷となる(能代惣町旧記)寛延3年新町年長は小玉久蔵文化11年諸商売は大工・木挽き鎮守は山王社・八幡社・住吉社,山王社祭礼で後町組として町山大黒を引く寛文年中の傾城免許により元禄年中2,3軒が柳町へ移る明治22年からは能代港町,昭和15年からは能代市の町名となる昭和41年住居表示実施により大手町の一部となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

新町(近世~近代)
織豊期~昭和38年の町名江戸期は長崎内町の1町陸手【おかて】に属した長崎港に注ぐ中島川下流右岸に位置する享和2年の長崎絵図によれば,長崎の中央部に立地し,町並みは東西に延び,東は豊後町,西は堀町に隣接していた町名は,内町26町のなかでは比較的新しく成立した町であったことに由来するという寛文3年の町の長さ158間・家持27(寛宝日記),同12年の町の長さ158間,実箇所数30,諸役御免箇所3(県史対外交渉編),文化5年の長崎市中明細帳によれば坪数2,765坪(地子銀免除),箇所数32,竈数37,戸数50・人数144(男71・女73),長門蔵屋敷1,小倉蔵屋敷1などと記されている長州藩の蔵屋敷は元禄年間頃は本五島町にあったが,のち当町に移された(現自治会館の地)小倉藩の蔵屋敷は元禄年間頃にはすでに当町に設けられていたようである(現県食糧事務所)両蔵屋敷の間,すなわち現在の自治会館と県食糧事務所の間の坂道は,長州と小倉の間ということで厳流坂と呼ばれた長州藩の蔵屋敷は元治元年没収され,慶応元年済美館となった乙名職は元和年間以来,具足屋源左衛門(後世,八尾と改称),八尾次郎左衛門,八尾善平,八尾平一と,八尾氏が代々勤めている明治11年長崎区,同22年長崎市に属す大正期の「長崎市分割地図」によれば,地内には医院・病院・写真館などがあった昭和3年の戸数20,同10年の戸数34・人口173同38年興善町となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

新町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は多摩郡柚木【ゆぎ】領,八王子横山15宿のうち幕府領大義寺管理の十王堂があったため十王堂宿とも称す八王子横山15宿の東端で,宿の惣門の外にあり,浅川から惣門までは竹の鼻とも呼ばれた(新編武蔵)元禄15年の村高は17石余,家数は本百姓28・水呑9,計37戸人口は男88・女72,計160人,馬10匹職業別では肴商渡世6戸・大工1戸・鍬鎌鍛冶1戸・ほかに千人同心2戸,「耕作之間沓草鞋造渡世送り申候者」27戸人口はその後,寛保3年44戸・162人(石川家文書),天保8年55戸・251人,文久2年49戸・358人・馬10匹(水越家文書)甲州街道横山・八日市両宿の加宿として出役名主は豊泉家の世襲鎮守社は小名竹の鼻の永福稲荷社(通称竹の花稲荷)で,宝暦6年江戸の力士八光山権五郎が勧請例祭は8月2日,縁起物としてショウガが売られ,ショウガ祭とも称し,当日は角力興行が行われた浅川沿いには,長さ196間・高さ5尺の通称石見土手があり,大久保石見守長安が築かせたと伝える浅川から漁獲されるアユは多摩川産のアユと同じく,享保年間から運上品とされた(桑都日記)八王子横山15宿の1つとして明治元年神奈川県,同11年からは南多摩郡に所属同15年町村分合による八王子の成立により,八王子を冠称同22年からは冠称を廃し八王子町,大正6年からは八王子市の町名昭和45年現行の新町・元横山町・明神町1~4丁目となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

新町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は現在の新町1丁目・新町2丁目・新町3丁目を,それぞれ下新町・中新町・上新町と称した明治5年からは1~3丁目がある江戸期は倉吉陣屋町の1町南を玉川によって区切られ,東を研屋町,西を福吉町・東岩倉町に接して位置する寛延年間の倉吉御陣屋図によると,間数・竈数は,中新町151間7分8厘・114軒,上新町180間・51軒,下新町は研屋町分に含まれるとして記載がない職人を中心とする町で,3丁目には寺院も多い元禄8年・寛延3年の大火で罹災した寺は,1丁目に天正年間建立と伝える浄土宗法界山大蓮寺,2丁目に寛永10年創建の真言宗金剛山宝照寺,3丁目に天正11年開基の浄土宗真如山誓願寺,承応3年開基の浄土真宗本願寺派の遊園山妙寂寺と善正寺,天台宗薬王山現光寺,日蓮宗学仙寺があった現光寺は明治初年に廃寺となる神社は町民から荒神さんと呼ばれた倉吉神社が3丁目にあったが,のちに仲ノ町浅田山に移された明治5年1~3丁目に分かれる明治初年の戸数・人口は,1丁目60・201,2丁目84・262,3丁目68・202(県戸口帳)明治12~16年まで1丁目には戸長役場が置かれた同22年倉吉町,昭和28年からは倉吉市に所属大正10年善正寺が河原町に,昭和47年学仙寺が余戸谷町に,それぞれ移転した昭和42年3丁目の一部が旭田町となる世帯数・人口は,昭和35年272・1,080,同55年207・607...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

新町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は柳川城下の1町瀬高町組に属す外城(郭)内の東部,矢部川水系二ツ川右岸に位置する元和6年立花宗茂再封後,瀬高町(現京町)3丁目から東へ行けないようにし,細工町を東に曲がった所に藤吉村の一画を分割して新しい町をつくり,新町と名づけた当町の町立ての時,瀬高町3丁目の東にあった瀬高御門を当町に移し,瀬高町の願いを入れて従来通り瀬高御門と称した東部より柳川城下にはいる唯一の関門で,北部の井手橋御門とともに城下の要衝であった抜荷番所としての機能も兼ねた享保元年瀬高町3丁目より出火,細工町・出来町・新町に延焼する(柳河年表/県史資料5)天明7年12月孝子の総右衛門を賞する(山門郡誌)伊能忠敬の「測量日記」の文化9年10月14日の条に「瀬高門,右に番所,新町」とある安政4年7月十時兵庫組が火術を高畑の四丁八丁で執行中,火旗が当町に落ちて火災が起き,これを新町火事といった(柳河年表/県史資料5)「旧高旧領」に新町分154石余と見える明治6年御木小学を創設主催者は太田惟精,教員3,生徒52同11年の耕宅地2町余,戸数92・人口414(県史資料2)同14年1月山門【やまと】・三池両郡の郡役所を当町に置いたが,同年11月三池郡を分離する同22年柳河町,昭和26年柳川町,同27年からは柳川市に所属同35年の世帯数72・人口336同57年柳川区保護司会館落成...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

新町(近世~近代)
江戸期~昭和43年の町名1~3丁目がある江戸期は今治【いまばり】藩の城下今治町の町名今治城下8町の1つ町名は,新しく作られた町を意味する寛永年間頃外堀と本町・風早【かざはや】町・中浜町・片原町の東端の広場と沿岸の埋立てによって成立元禄12年上ノ町・中ノ町・下ノ町・浜手新地が見え,のち1~3丁目となる惣計間口203間,うち15間ずつは本町と風早町の町役を負担し,残りは年貢地であった享保20年「新町寸間改帳」によると,戸数1丁目10・2丁目12・3丁目12・新地12計46軒延宝8年の人口464,明治13年の戸数250・人口973成立当初より魚類の取引きが盛んであったと伝える安政6年町年寄は井原市郎兵衛ほか4名東の新地に今治港があり,東西1町3間・南北1町15間で,明治13年4万2,200艘の船の出入があった明治18~22年今治を冠称同22年今治市の大字,大正9年からは今治市の町名となる明治42年・大正3年・昭和10年と道路の拡張・整備が行われたが,昭和20年戦災により全町域を焼失昭和43年現行の通町1~3丁目・常盤町1~4丁目・風早町1丁目となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

新町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は名張城下八町の1つ町人地地籍上は簗瀬村に属す藤堂館の南西に位置し,城下町の西のはずれにあたる東は本町,西は南出村,南は名張川を隔てて瀬古口村とそれぞれ接する町名の由来は,式内社宇流富志禰神社の門前にあたる榊町やその周辺にくらべ新しくできたことにちなむというまた名張藤堂家の初代藤堂高吉は名張川の改修工事を行い河道を現在の位置に定着させたが,その際に当町も造成されたという(名張市史)城下への西の玄関口としてにぎわった当町を流れる名張川には板橋と渡し舟(2隻)があった宝永7年名張城下の大火ののち鎮火の神として愛宕神社を勧請し,町の鎮守とした明治5年の人口565(名張市史)同22年名張町,昭和29年からは名張市に所属当町は江戸川乱歩の生誕地にあたり,生誕地記念碑がたっている愛宕神社の祭りは7月24日,昭和初年から神社横の名張川原で花火大会が行われ,夏の景物となっているまた宇流富志禰神社の御旅所もある新町橋は明治19年に木橋,昭和26年にコンクリート橋に架け換えられた...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

新町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は鳥取城下四十八町の1町町人地鳥取城の南西,城下町の中央部に位置し,若桜【わかさ】街道に沿う北は二階町1丁目,東は寺町,西は元魚町1丁目,南は川端1丁目と接する町名の由来は,隣接する元魚町より遅れて町となったことにちなむのちに立川新町に対して沖の新町とも呼ばれた家数は,寛永11年37(因幡志),安永7年90(藩史5)安永7年の表口間数163間余,町役負担数104人余(同前)幕末には井上昌造が習字を教える寺子屋があり,明治4年には男子120人・女子80人もの生徒がいた(藩史3)同9年の戸数83・人口317(鳥取市史)同22年鳥取市に所属明治期以後住宅地となったが,昭和27年鳥取大火後若桜街道に沿う側が近代的商店街となり現在に至っている同42年一部が戎町となる世帯数・人口は,昭和35年52・269,同45年45・204...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

新町(近世~近代)
江戸期~現在の町名明治13~31年は八幡を冠称江戸期は八幡城下の町名吉田川下流左岸に位置し,西は今町,東は橋本町に接する元禄5年「城下町家帳」に,東西に延びる町並みの南側24戸・北側28戸が記され,郷通商人8・紺屋5・豆腐屋2・茶屋・酒屋2・木挽・大工2・畳屋・材木山師・ぬしや・医師2・鍛冶屋・耕作人19ほかがある道路の中央を東西に島谷用水が流れ,明治初期まで続いた天保10年の家数70(うち明家13)・人数282(郡上町中人家寄惣目録)文久元年「郡上八幡町中五人組連判帳」に新町は12組81人が連判している文政6年の紀行文「三ツ山巡り」に八幡城下見物の際,新町で糸引・真綿作りを見物したことが記されている明治4年岐阜県に所属同5年の戸数75・人口354同22年八幡【はちまん】町の大字となる...

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