ケータイ辞書JLogosロゴ 粟沢村(近世)


群馬県>水上町

 江戸期〜明治22年の村名。利根郡のうち。はじめ沼田藩領,天和元年幕府領,元禄16年沼田藩領,享保15年幕府領,同17年沼田藩領,寛保2年から幕府領。村高は,万治2年の真田氏所領村高書上写で44石余,寛文3年の真田氏新検地で199石余に打ち出されたが,真田氏改易後,幕命による酒井氏の貞享検地で18石余となった(平形家文書/県史資料編12)。なおこの貞享検地の際,それまで当村のうちとされていた夜後村が分離,一村となった。文化2年写の宝永元年本多氏沼田領村々石高書上(内海家文書/同前)では,村高18石余,反別田方1反余・畑方7町9反余。なお「寛文郷帳」で村高は畑方44石余,「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」はいずれも18石余。享保15年の判鏡改帳(綱子区有文書)では,家数22うち組頭2・年寄2・百姓15・水呑3,名主は綱子村名主が兼帯(町誌みなかみ)。天保13年の新明細帳(粟沢区有文書)によると,年貢は金納,小物成は鴨役・薪役・鉄砲役など,畑作は粟・稗・大豆・小豆・蕎麦などの一毛作,家数26・人数105(男54・女51),馬20,農間に男は鍬柄・桶作り,女は蚕の綿かけや麻布作りなどを行い,夫食代拝借返納は25年賦で毎年227文余ずつ返しており,すぐれた高持百姓や有徳者はおらず,小高・小村の村方のため分郷すると諸事に難儀すると記されている。明和2年の年貢割付により年貢の内訳を見ると,本途が米5升5合・永1貫文余,ほかに見取畑2か所200文・林畑267文,小物成として夫銭54文・薪役21文・鉄砲役550文・鴨役14文・鞘木運上53文余・御伝馬宿入用1升1合・御蔵前入用45文余があり,合計米6升6合と永2貫591文余となっている(町誌みなかみ)。村々にとって入会地の確保は重要な問題で,入会をめぐる争論は,文化年間に綱子・向山および当村の3か村と幸知・湯檜曽・大穴3か村との間に粟沢山の入会権に関して発生,また嘉永年間には向山村と当村および綱子村の間で入会山利益に関して起きている(同前)。天保15年江戸の商人と利根郡糸井村与平治らによって提出された清水越新道計画は,当村から直接峠へ通じるものであったので,当地内では熱が入った。嘉永6年下見検分に際して作られた下見検分人足議定に見える人足数は藤原村391人・綱子村304人・湯檜曽村44人に対して,当村は522人で,この人足数や役人宿泊等諸経費の分担からも,その積極性がうかがえる(同前)。なお慶応4年の宗門改帳による家数27,人数116うち男61・女55(同前)。幕末の改革組合村高帳では,月夜野村寄場組合に属し,高18石余,家数26。明治元年岩鼻県,同4年群馬県を経て,同6年熊谷県,同9年群馬県に所属。明治22年水上村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7281415
最終更新日:2009-03-01




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