ケータイ辞書JLogosロゴ 安中(中世)


群馬県>安中市

 戦国期に見える地名。碓氷郡のうち。弘治2年11月16日の古河公方足利義氏感状案(武州文書/県史資料編7)に「今度於上州安中城働之所」と見え,森孫八郎の当地での戦功を賞している。また当地には城が築かれていたことが知られる。永禄年間には武田・上杉の間で攻防が繰り返された。永禄7年と推定される年未詳2月1日の上杉輝虎判物写(内閣文庫所蔵富岡家古文書/同前)には「於彼口安中得大利」と見え,武田信玄の諏訪(松井田城)攻めに対して上杉方は当地へ攻め入り戦功をあげた。しかし同年5月17日の鎌原重春宛武田信玄書状写(鎌原系図所収文書/同前)に「倉賀野・諏訪・安中之苗代薙払」と,また同年と推定される年未詳9月15日の太田資矩書状(白川文書/同前)には「武田信玄上州出張,安中之地被属本意候」と見え,当地が武田氏の勢力下に入ったことが知られる。この模様は北条高広から上杉輝虎のもとに知らされた。同8年と推定される年未詳5月22日の上杉輝虎書状写(歴代古案/同前)には「晴信至于安中口,重出張由候」と見え,栗林政頼・長尾伊勢守に対して油断なきよう命じている。同年と推定される年未詳7月23日の富岡重朝宛上杉輝虎書状写(内閣文庫所蔵富岡家古文書/同前)には「小幡谷・安中口へ深々与動簡要候」とあり,厩橋の北条高広および西上州の諸士とともに当地から信州まで攻め入るよう命じている。しかし永禄10年7月7日の武田信玄判物(京都大学蔵後閑文書/松井田町誌)には「後閑領」として「三百四十七貫五百七十文 安中者并松井田之知行」と見え,当地が後閑氏の所領として宛行われている。永禄10年8月7日の安中衆安中家繁等連署起請文(生島足島神社文書/県史資料編7)には,封紙ウハ書に「安中衆」と見え,当地の安中氏は周辺地衆とともに武田家への臣従を誓っている。また元亀4年5月17日の武田家定書(不動寺文書/県史資料編7)では,林也坊に対し,不動寺住持職の譲与を認めるとともに「安中・高田領之衆令,如前々被相集四季之法事等」と見え,不動寺興隆のため,当地などから法用のための衆分を集めることを命じている。永禄年間から天正初年にかけて当地の安中城はおおむね武田氏の支配下に置かれていたが,「安中志」によると天正5年当城主安中忠成の三河国長篠における敗死によって当地にあった城は廃城となり,「農民の畑と成」という(県史料集1)。また「信長公記」天正10年2月16日および3月3日条によると織田信長・徳川家康の武田攻めに際して,当地の地衆は小原継忠・武田信頼とともに日向宗栄に従い信州に向かったことが知られる(信濃史料15)。同年と推定される年未詳6月29日の北条家伝馬手形(安中宿本陣文書/群馬県古城塁址の研究補遺上)には「陣中へ来伝馬安中領之事」と見え,また天正13年と推定される年未詳閏8月9日の北条氏邦判物(坂本郷文書/同前)にも「伝馬次」として「安中 町人衆中」と見えることから小田原北条氏により当地に伝馬制がしかれたことがわかる。天正13年11月3日の矢沢頼綱宛上杉景勝判物(矢沢文書/同前)に「出置知行之注文 一,安中一跡之事」と見え,当地などを宛行うことを約している。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7281418
最終更新日:2009-03-01




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