ケータイ辞書JLogosロゴ 飯倉村(近世)


群馬県>玉村町

 江戸期〜明治22年の村名。那波郡のうち。前橋藩領。村高は,「元禄郷帳」で197石余,「天保郷帳」220石余,「旧高旧領」同高。村墓地入口の斎藤国守の墓石銘に,旧墳崩れこの地に移って慶長7年より161歳(宝暦12年)とあり,郷帳も元禄年間以前はないことから天和年間川井村から分村したと思われる。その頃から沼之上村の烏川左岸に川井河岸を設け,船問屋6軒,ほか13軒を合わせて19軒で河岸屋敷を形成し,前橋藩主に取り立てられて船運送業にあたった(清水家文書)。享保18年の御買上米諸色証文(清水家文書/県史資料編14)によると,川路は浅草御蔵前まで45里,倉賀野河岸から艀下で下し当所で積み換えて江戸へ送った。米の運賃は,享保18年1両に付2〜4月82俵・5月84俵・元文4年3〜9月52俵・12〜2月42俵であった。文政12年の上り荷250駄,塩・茶・糖・干鰯・太物・綿・水油・瀬戸物などで船賃125貫,惣社町・玉村宿への駄賃50貫,蔵敷12貫の計187貫文,下り荷(江戸廻し)320駄,御城米・大豆・小豆・炭・板木・柏皮などで,船賃96貫,蔵敷11.5貫の計107貫文(清水家文書)。この河岸を通った御城米は御料米・前橋・高崎・安中【あんなか】・安房・七日市・沼田・松代・上田・小諸・岩村田・飯山・須坂・田能口・小幡・沼津・館林の各藩米と5人の旗本知行所米であった。元禄10年の越後御城米覚帳(同前)によると,御米1万俵,江戸までの船賃279両1分・拝領金60両で,拝領金は13人の船持が4両ずつ分けた。また享保13年須坂御城米189俵・大豆18俵,柏木280駄,薪50駄を1両につき13駄で送っている。河岸の船数をみると,宝暦3年問屋船4うち艀下2・小艀下2,町船17うち本船6・艀下10・小艀下1,同10年には問屋船1,町船24うち本船7・艀下13・小艀下4(同前)と,運送そのものは問屋の手から運船業者の手に渡り,問屋は蔵敷などを稼ぐのみとなり,さらにたび重なる洪水による川瀬の変流によって港の位置が遠くなり収入減を招いた。このため文化年間頃から開削願を出し文政8年ようやく再興にこぎつけた。船持運上金は勘定奉行へ6人で1両3分と永50文を納め,ほかに前橋藩に河岸御祝金12両を1年3度に分け26人で納めた。宝暦8年からその半減を願ったがなかなか許可されなかった。船の所有状況をみると,問屋で本船1艘持1,艀下持1,小艀下持2,艀下・小艀下各1艘持1,町船は本船持4,艀下持8であった。前橋藩主・沼田藩主の帰国ならびに江戸出府には船問屋清水六左衛門家を本陣として休憩後,利根川渡船で対岸柴宿へと渡った。前橋藩主御休の宿割をみると,本陣ほか24軒に分かれ,本陣55人,ほかに20人1軒,10〜20人5軒,10人未満19軒となっている。弘化3年から五料宿の助郷となり,五料宿掛り日光例幣使街道道普請は210間を受け持った。当村ではたびたび利根・烏両川の洪水による被害を受けた。天明3年の浅間山焼け・泥押しには降灰が30cmに及び,利根川が溢れて烏川へ逆流し,小泉村や沼之上村の堤防が破れて当村北部から流れ込み,人家や耕地が埋没し,厚さ30〜180cmの泥土が堆積して村は疲弊した。同6年にも大洪水が村を襲い,寛政6年には川井河岸前の泥入地起こし返しを沼之上村民が企て,それに対し飯倉村では河岸場荷揚に差支えるとして争った。川井河岸近くに飯玉神社と明和3年開基と伝える高野山真言宗慈恩寺がある。文化14年武州八町河原村(現埼玉県上里町)と烏川原地界を争い,裁許杭を打って柴刈場を確保した。明治4年前橋県,群馬県を経て,同6年熊谷県,同9年群馬県に所属。学校は明治6年6か村連合沼上小学校が設立され,翌7年川井村と川井小学校を建て,同11年連合玉村小学校分校,同19年五料小学校となる。同22年芝根村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7281431
最終更新日:2009-03-01




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