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- 泉沢村(近世)とは
「泉沢村(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 泉沢村(近世) 江戸期~明治9年の村名閉伊【へい】郡のうち閉伊川支流の小国川中流域の狭小な河谷地に位置する盛岡藩領慶長20年宮古代官所支配となったが,明暦3年大槌通豊間根村と替地になり,享保20年から大槌通に属す元和9年泉沢与市郎は藩の家臣桜庭丘介より,「四拾八石七斗五升六合 泉沢村 本地遣候全知行可仕候也 元和九年閏八月二十八日」という墨印状を貰い当村一円の知行主となる村高は,「邦内郷村志」「旧高旧領」ともに57石余「正保郷村帳」「貞享高辻帳」「天保郷帳」「安政高辻帳」には村名が見えない「邦内郷村志」によれば,家数68,集落別内訳は摺石川目36・桐内沢10「本枝村付並位付」によれば,位付は下の中,家数50,集落別内訳は本村19・摺石16・繋15元禄7~9年,宝暦5年,安永4年~天明3年,天保3~4年に凶作に襲われ,宝暦5年と天明3年では8割5分以上の大減収,天保4年は収穫皆無の状況であった寛延4年泉沢村騒動(泉沢光学坊霞騒動ともいう)が起こるこれは旅僧の出入りをめぐる騒動で,当時霞主であった修験者光学坊が無断で霞の領域に他所の僧を入れて滞在させたため,これに反対したほかの修験者との対立であったこのため光学坊は神事祭一切を差し止められ,当村霞主も明神(江繋村)の浄楽坊に変えられてしまった以後この問題で騒動が絶えなかったといわれている(川井村郷土誌)明治元年松本藩取締,以後江刺県,盛岡県を経て,同5年岩手県に所属同9年江繋村に合併 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 泉沢村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 泉沢村(近世) 江戸期~明治9年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 泉沢村(近世) 江戸期~明治21年の村名常陸国新治【にいはり】郡のうち恋瀬川支流小桜川の中流左岸に位置する寛文年間は下総関宿藩領,元禄年間・幕末期ともに旗本小菅氏知行村高は,「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高簿」ともに58石余天保14年の家数4(八郷町誌)「新編常陸」によれば,村の規模は東西4町・南北3町半明治8年茨城県,同11年新治郡に所属明治21年青田村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 泉沢村(近世) 江戸期~明治初年の村名二戸郡のうち馬淵【まべち】川支流二ツ石川上流左岸に位置する盛岡藩領福岡通に属す村高は,「邦内郷村志」「旧高旧領」ともに68石余「正保郷村帳」「貞享高辻帳」「元禄郷帳」「天保郷帳」「安政高辻帳」には当村の名は見えない「本枝村付並位付」によれば,位付は下の中,家数9明治初年出ル町村に合併したものと思われる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」