ケータイ辞書JLogosロゴ 板井村(近世)


群馬県>玉村町

 江戸期〜明治22年の村名。群馬郡のうち。はじめ前橋藩領,延享4年から幕府領代官伊奈半左衛門支配となり,寛延2年から旗本高井氏領。村高は,「寛文郷帳」で1,028石余うち田方747石余・畑方281石余,「元禄郷帳」同高,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに1,077石余。江戸期から明治期まで家数80〜90・人口300〜400を上下する。当村は利根川沿岸にあるため,江戸期を通じしばしば水害を受け,特に寛保2年・寛延7年・天明3年・同6年・文化9年・文政10年・弘化3年などは大損害を受けた。そのたびに村民は新田を開発し修覆に精を出したが,大きな収穫にはつながっていない。寛文4年〜天和3年まで20年間に開拓された土地は7町3反余で,その石高は47石2斗余であった。天明3年浅間焼けの記録によれば,その被害は田55町2反余のうち4町7反余,畑52町6反余のうち36町4反余,屋敷4町1反余のうち7反余が泥入りになっている。堤防で普請を要する場所850間。泥入り後の復旧工事の難渋さは想像以上であり,それに要する莫大な費用は村の借用金として長く村民を苦しめた。当村出身の和算家に斎藤宜長・宜義親子がいる。宜長は関孝和流の和算を好み円理豁背の術を究め当時無比と称された。宜義は父に優る頭脳の持主で天才肌であったが,非常な奇人で数々の逸話を伝えている。弟子は村内をはじめ近郊に500人を数え後世の和算に大きな影響を与えた。著書に「算法円理起源表」「算法円理新々」「数理神篇上下」などがある。俳諧では羽鳥半海が有名で,少年期から神童といわれ,禅を松島瑞巌寺,俳諧を可布庵逸淵に学んだ。俳風の萎靡を嘆き芭蕉にあこがれ,正風の俳諧を興そうと全国行脚の旅に出ている。「広涯集」という句集を残したが,その他の遺稿は上梓されていない。幕末の改革組合村高帳によれば,玉村宿寄場組合に属し,高1,077石余,家数83,明治元年岩鼻県,同4年群馬県を経て,同6年熊谷県,同9年群馬県,同11年群馬県西群馬郡に所属。同22年滝川村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7281532
最終更新日:2009-03-01




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