ケータイ辞書JLogosロゴ 岩井村(近世)


群馬県>吾妻町

 江戸期〜明治22年の村名。吾妻郡のうち。はじめ沼田藩領,天和元年幕府領,元禄11年旗本保科氏領。村高は,「寛文郷帳」314石余うち田方119石余・畑方195石余,寛文2年の真田氏の検地で1,487石余と打ち出されたが,貞享3年の再検地では737石余(吾妻郡誌),「元禄郷帳」「天保郷帳」ともに752石余,「旧高旧領」737石余。用水は金井村境の寺沢川から引き,真田氏の開削と伝えられる山根用水の比重が高い。ほかは山端・湿地からの湧水に頼る。鎮守は白山大権現(現白山神社)で,正徳5年田中から長徳寺の側に移り,神仏分離後は現在地となる。弘安年間吾妻太郎の開基と伝える,吾妻氏の菩提所の真言宗豊山派北野寺末岩光山長福寺がある。同寺には吾妻太郎の墓と伝える貞和5年の五輪塔が残る。安楽寺も真言宗で同派に属す。吾妻三十三所観音第6番札所の寺沢堂は千手観音が本尊である。村内を三国脇往還が通り,背高地蔵は「江戸・善光寺」の道標が残り,分岐点である。ここから北へ向かうと吾妻川の渡船場である。寛政7年当村など川南9か村が中之条町を相手に秣渡し以外を認めないと訴え,渡船場出入となった。吾妻3河岸の1つである岩井河岸は,嘉永7年名主伊能平治右衛門が大道峠越えの荷物扱いを目的に設けたもので,五料河岸までの通船が認められた。しかし急流など悪条件もあり,わずか4年間の通船で終わっている。寛文10年当村など川南12か村が榛名【はるな】山北麓の吾妻南山をめぐって大戸村・榛名山社人と争い,翌11年勝訴しているが,同所をめぐる川北10か村との争いでは,元禄12年敗訴し入会利用を認めた。天保年間の凶作時,農民の悲惨な状況を見た酒造家で名主の田中両之助は,天保7年から4度老中に土地制度の改革を説いた建白書を提出している。幕末の改革組合村高帳によれば,中之条町寄場組合に属し,高737石余,家数113。明治元年岩鼻県,同4年群馬県を経て,同6年熊谷県,同9年群馬県に所属。同22年太田村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7281649
最終更新日:2009-03-01




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