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- 石井荘(中世)とは
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石井荘(中世) 平安末期~鎌倉期に見える荘園名葛下【かつげ】・忍海【おしみ】両郡のうち仁安2年10月11日付興福寺東金堂去文(春日大社文書2)に「東金堂 避石井庄壱所 在大和国葛下忍海両郡」とある延久年間以前に桜島重経という者が根本領主となり,以後重経から嫡子経成,経重から外孫阿闍梨玄信,さらに玄信甥の僧尋珍にと伝領された桜島氏は宇智郡を本貫とするらしいこの間いったんは興福寺東金堂に寄進され,公文僧勝算・定使金剛峰寺僧長能が田数を注進,東金堂は番頭米8石を収取したが,仁安2年に領主に返付されている寿永元年には僧尋珍と法橋良厳が当荘知行をめぐって相論,藤氏長者に提訴されて尋珍の知行が認められたその後文治2年には僧行俊が大峰縁起をかざして当荘を役行者誕生所の四至内と称し,押領を企てたため,藤原氏の勧学院政所で審理が行われ,やはり尋珍の領掌が認められている(大東家文書寿永元年6月16日付興福寺公文所下文・文治2年12年5日付勧学院政所下文/春日大社文書6・1)当荘内には春日社八講免田の「小東坪五段」があったが,その所当を5か年にわたって未進したため,建久2年に興福寺別会所がその弁済を命じた(大東家文書建久2年卯月15日付興福寺別会所下文/同前6)現在の新庄町寺口字石井はその遺称地らしい |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」