ケータイ辞書JLogosロゴ 岩下村(中世)


群馬県>吾妻町

 戦国期に見える村名。吾妻郡のうち。大永7年6月の年紀を有する観音堂棟札之写(渡軍平氏所蔵/吾妻郡誌)に「馬頭観世音吾妻郡三拾三所順礼之□二十一番行沢寺 本願岩下村」と見える。永禄3年と推定される年未詳10月2日の正木時茂書状写(歴代古案/県史資料編7)では「就敵久留里張陣,御越山之儀申入候処,早速去月上旬被進御旗明間・岩下・沼田之城被攻落」と見え,上杉氏の関東出兵に際して当地にあった城が攻め落とされたことが知られる。永禄4年の成立と推定される関東幕注文(上杉家文書/同前)には,「岩下衆」として斎藤越前守・山田などの名が見え,当地地衆が上杉家に従ったことがわかる。永禄7年と推定される年未詳正月22日の蒲原宮内少輔宛武田信玄書状(東洋文庫所蔵鎌原文書/同前)に「岩下之人質悉執之,三枝土佐守有談合被勤番之由,祝着候」と見え,当地の人質を武田家へ送ることが命じられている。また「加沢記」では当地に岩櫃城主大野氏の家臣斎藤弥三郎の居城があり,斎藤氏は前年の武田信玄の岩櫃城攻めに際して大野氏に背き武田方の真田氏に内通して同城は落ち,この時斎藤氏を支持した当地地侍は真田氏への忠誠の証として妻子を人質として当地に置いたことが記されている(県史料集3)。永禄10年と推定される年未詳卯月7日の発智長芳宛山吉豊守書状(反町英作氏所蔵発智文書/県史資料編7)には「雖然岩下・白井・厩橋口之御手ふさかり与申」と見え,当地を武田方がおさえていたことが知られる。「神道集」の「上野国児持山之事」には,「前目代藤原ノ成次替ニテ北上野山代ノ庄ト云岩下ト山里ニ移テヌト」と見え,当地は山代荘に含まれていたという。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7281669
最終更新日:2009-03-01




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