ケータイ辞書JLogosロゴ 大戸(中世)


群馬県>吾妻町

 戦国期に見える地名。吾妻郡のうち。青戸とも書く。柴屋軒宗長の「東路の津登」に「大戸といふ所,海(浦カ)野三河守宿所に一宿して,九月十二日に草津へつきぬ……廿一日,草津より大戸へ帰り出侍りぬ」と見え,永正6年9月に当地の浦野三河守の宿所に一泊して草津へ行き,再び当地に帰ってきたことが知られる(県史資料編7)。同10年4月吉日の長野憲業立願状(榛名神社文書/県史資料編7)には「大戸要害令落居,憲業属本意候者」と見え,当地にあった城を攻め落とした後に榛名山に寺領を寄進することを約しており,上杉氏方の長野氏が当地攻略を図っていたことが知られる。永禄5年卯月晦日の北条氏政感状(吉田文書/同前)には「去廿四日,青戸之地乗取候砌」と見え,興津右近の当地における軍功を賞している。永禄8年と推定される年未詳11月12日の武田信玄書状写(聴濤閣集古文書/同前)では,上杉輝虎の上野【こうずけ】出張に対処するため「就之も弥大戸之帰入工風事候」と見え,日向是吉に対し真田氏の支持を受けて当地の警固にあたるよう命じている。翌9年と推定される年未詳閏8月19日の武田信玄書状写(武家事紀/同前)では,「岩櫃・大戸両城之間何地ニ候共,敵及行所へ可被移之旨」と見え,沼田に出張した上杉氏に対抗するため当地などの警固を肝要にすべきことを山家薩摩守・大井昌業・依田又左衛門・浦野宮内左衛門に命じている。「加沢記」の頭注(県史料集3)によると浦野源左衛門は大戸真楽斎とも称し,当地にあった手古丸城に住したと記されている。同12年と推定される年未詳2月2日の遠山康英覚書(上杉家文書/県史資料編7)には「相甲御対陣間近間……沼田御在城衆ハ,青戸・岩櫃筋へ被上火手様,念願被申候」と見え,小田原北条氏と武田氏の合戦の間隙を縫って上杉氏が当地方面への進出を意図していたことが知られる。下って天正10年と推定される3月2日の北条氏邦宛北条氏政書状写(諸州古文書/同前)には「大戸之地被取立由,殊嶮難ニ候歟」と見え,武田氏滅亡に伴う旧武田領国の再分割により,当地は小田原北条氏に渡ったものと推定される。なお同10年10月19日の真田昌幸宛行状(唐沢文書/群馬県古城塁址の研究補遺上)によれば「於其元別而致奉公候条,弐貫文手子丸」と見え,この時期に一時小田原北条氏に属した真田氏から唐沢玄蕃に当地内の手子丸4貫文の地などが宛行われている。天正12年2月16日の北条家朱印状(小板橋文書/県史資料編7)には「大戸之寄居普請ニ付而,松井□(田)籏本衆領分之人足,卅人中三□合九十人可申付候」と見え,当地の陣屋普請が北条氏の手によって行われていることがわかる。また年未詳10月17日の斎藤定盛書状(茂手木文書/同前)の奥ウハ書に「〈自大戸〉斎摂」と見え,小田原北条氏方の斎藤摂津守定盛が,当地に在城していたことがわかる。同じく年未詳極月14日の矢部大膳亮宛斎藤定盛書状写(武州文書/同前)には「修理亮拙者所へ被申越候分物,郎等如御下知,当大戸根小屋ニ指置可申由,返答被申候」とあり,当地に小田原北条氏方の兵が配置されていることからこの2通の書状は天正10年の小田原北条氏による手子丸城攻略以後のものと推定される。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7281893
最終更新日:2009-03-01




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