ケータイ辞書JLogosロゴ 岡崎新田村(近世)


群馬県>吾妻郡東村

 江戸期〜明治22年の村名。吾妻郡のうち。はじめ白井藩領,元和元年幕府領となり当村に陣屋を設けた代官岡上氏支配,元禄4年陣屋は廃されたが引続き幕府領。当村は元和元年新定利村から岡崎村に改称し,寛文4年岡崎新田村と改めた。村高は,「寛文郷帳」畑方232石,「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに同高。元和元年代官岡上甚右衛門は火山噴出物が堆積し水利の悪い原野の利用を考え,榛名湖から流出する沼尾川に着目し水路を開削,飲料水確保と開墾に着手した。広場から約30町ほど上流のたかやより取水の工事を始めた。代官とともに当地に移り住んだ土屋吉重・同吉政など14人が中心に工事を進めた。代官は岩久保山観音を創立し,開拓者の心を信仰により慰撫し永住を進めるなどの施策を行ったが,在職2年で没した。2代甚右衛門景親も在職37年の間工事を継続し,慶安2年の五町田村開改帳に記されるように近隣の村々まで開拓の手が及び業績を上げた。3代治郎兵衛景能の時に全長約2里・深さ1尺・川敷6尺・馬踏9尺の岡上用水(たかや堰)が通水し,親子3代70年の継続事業が完成した。治郎兵衛景能はその後も笠懸野を開墾するなど,上野・下野【しもつけ】・越後など各地で用水開田に尽力したが,貞享4年中傷による無実の罪で切腹を申し付けられ自刃したという。景能の位牌は,のち当村民が譲り受け岩久保観音に納められ,現在は区長保管として4月18日の祭日に村民が参拝する。また,大久保の鎮守榛名大明神(満行宮大権現・現榛名神社)境内に岡上大明神として享和元年生祠石宮を建て,景能の徳に感謝している。昭和28年東第二小学校に代官岡上父子頌徳碑が建立された。陣屋は,その北東の盆地に置かれ,近くに屋敷・下屋敷・障子屋敷・御蔵台などの地名が残る(あがつまあづま)。しかし,火山灰土のため漏水が甚だしく,作柄も悪く,のち開田は遅々とした。慶応4年の村明細帳(谷家文書)によれば,高65町余うち畑田4反余,畑方は中畑6町7反余・下畑18町5反余・下々畑19町9反余・山下々畑18町2反余・屋敷1町6反余。入会の野銭永1貫。関所附村で,杢ケ橋関所・祖母島番所・杢ケ橋掛替えには半高ずつ人足を勤めた。人数は男169・女158,家数82,馬10。村の規模は,東西1里余・南北10町ほど。寺社は,天台宗延命山地蔵院宝積寺(鎮守榛名山満行宮別当),浄土宗報礼山最上院大覚寺・大日六観音(岩久保観音),ほかに山神4・薬師・稲荷・諏訪・八幡。山村のため猪鹿脅しの四季打鉄砲9挺。農間稼ぎは,薪秣を伊香保に売り,女は養蚕や薪・落葉取りに従事した。弘化4年の諸夫銭附立帳では家数109うち本百姓47・水呑百姓62(あがつまあづま)。天保13年の日光社参助郷免除願では,当村など関所附9か村は社参の時は要害固めの人足を負担し,助郷が免除された。また,三国脇往還が吾妻川沿いを通り,杢ケ橋流失時には箱島村での御用継立に際し助郷を負担した(同前)。宝永5年榛名湖水利権をめぐり,高崎藩領群馬郡浜川村ほか11か村との水論があった(水論裁許絵図裏書/谷家文書)。また湯中子村との境論は,文化12年沼尾川を当村分とし,川の南岸を村境にすることで内済した(あがつまあづま)。榛名山北麓(通称吾妻南山)は重要な入会地で,寛文11年当村など川南12か村と榛名社人・大戸村との山論に対して裁許が下り,12か村側が勝訴し境塚を築いた(大戸区有文書)。寛政8年商品経済発展のなか,秣場本来の機能を維持しようとする当村や五町田村・箱島村が,入会山より産出の木炭などを箕輪・高崎方面に付け通し売買していた川戸村を相手に堀切を造り道路を遮断,荷物を差し押さえ焼き払う事件が起きた(あがつまあづま)。幕末の改革組合村高帳では,中之条町寄場組合に属し,高232石,家数87。明治元年岩鼻県,同4年群馬県を経て,同6年熊谷県,同9年群馬県に所属。明治6年村上学校から分離し生徒数60で箱島小学校が設置され,同8年箱島に移転(同前)。同15年箱島小学校岡崎分教場が宝積寺跡に設置され,同20年岡崎新田尋常小学校と改称。また,明治10年祖母島【うばしま】村と境論があった(同前)。同22年東村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7281952
最終更新日:2009-03-01




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