ケータイ辞書JLogosロゴ 岡崎(近代)


群馬県>吾妻郡東村

 明治22年〜現在の東村の大字名。大正6年までは大字岡崎新田と称した。明治24年の戸数98,人口は男240・女227,学校1・水車場4。世帯数・人口は,昭和5年121・690,同15年133・828,同25年151・913,同35年142・802,同45年149・707,同55年214・959。明治39年難所柏原の切通しが救農工事で開削。渋川原町線は大正12年県道に認定され,翌13年四万馬車合資会社経営の5人乗り乗用自動車が渋川―原町―中之条間の通称日陰道を運行した。大正元年岡崎・尻貝の42町余を寄付し村有林が形成され,同4年天台中組の原野など72町余が住民88人に売却され共有施業林が誕生した。耕地面積の推移を見ると,水田は明治42年3.7町余・昭和30年18町余,畑は明治42年55町余・昭和30年63町余とそれぞれ増加している。明治20年頃から榛名湖の水を天神峠下に疎水道をうがち長野堰に落とし増水を図る動きがあり,同34年水門建設が長野堰普通水利組合で決議された。計画書は目標として烏川の増水を図り,用水不足時に開門し1〜2週間送水し,常時は水門を閉ざす内容であったが,当地の反対にあい,県の斡旋で流出口を長野堰より1尺7寸低くするなど設計変更が行われ,同36年許可された。工事費は長野堰側で負担し,最初に沼尾側の水門を竣工,次いで天神峠下の水門を完成させ取水を開始した。長野堰側は平水以上を取水し,干害など特別の場合は,岡崎の承認により立会いで水門を開くことになった。昭和39年伊香保町の水不足解消のため,沼尾川から毎秒0.06tを分水し,当地は客土で稲作増収・畑地の灌水・簡易水道新設など用水の多角利用を実現し,近代農村建設に着手した。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7281953
最終更新日:2009-03-01




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