ケータイ辞書JLogosロゴ 奥田村(近世)


群馬県>吾妻郡東村

 江戸期〜明治22年の村名。吾妻郡のうち。はじめ沼田藩領,天和元年幕府領を経て,元禄11年からは旗本土屋氏領。村高は,「寛文郷帳」102石余うち田方20石余・畑方82石余,寛文3年の真田伊賀守新検地控では470石余(平形家文書/県史資料編11),貞享2年の沼田領再検地控では172石余(同前),「元禄郷帳」「天保郷帳」ともに180石余,「旧高旧領」172石余。名主を勤める家柄は九郎兵衛・五郎兵衛で,天保年間頃の名主給は高引10石,名主役は役人のうちで入札年番制としていた(あがつまあづま)。農業用水は主に奥田川から取水する。三国脇往還が通り,文政〜天保年間の諸業高名録に,飯塚九郎兵衛家が旅人宿として絵入りで載る。寛政6年には村方の者が駄賃稼ぎを妨害され,五町田村を相手に従来通り武家以外の旅人の継送りを自由にできるようにと訴えた(同前)。榛名山北麓の山林原野(通称吾妻南山)は当村などの重要な入会地で,寛文11年奥田村など川南12か村と榛名社人・大戸村との山論に裁許が下り,12か村側が勝訴し境塚を築いた。また元禄12年には川北10か村が川南側の権利侵害を訴えた山論の裁許では,川北側が従来通り入会権を認められた。入会地での炭焼き・売木などで山の切荒しが目立ち,当村など12か村は議定を作成して違反を取り締まった。文化9年当村が白山堂に堀切を造り杭木を立て,新巻村の秣苅りを差し止め出入になり,一時は示談したが,翌10年新巻村が訴え再燃した(同前)。天明3年の浅間焼出大変記写(一場家文書)では,高172石余のうち泥入り5石余とある。この焼出で下川原地内の境が不分明になり,新巻村と境論になったが,天保9年麻蒔沢の落合より村上作間の森東南を見通す境目に岩塚を築き,東南を奥田村とする議定が結ばれた(同前)。宮貝戸白頭の森は当村と新巻・泉沢3村の鎮守で,日本武尊の伝説もあり,ほかに牧場守護・牛馬の祖神とされる白頭明神(現白鳥神社)の別当は仙光院。貞享3年の検地帳には仙光院が別当の天神宮・諏訪宮・十二宮などが見える。文政年間頃に水戸藩浪士飯塚五郎兵衛が当村で寺子屋を開いた。幕末の改革組合村高帳では,中之条町寄場組合に属し,高172石余,家数44。明治元年岩鼻県,同4年群馬県を経て,同6年熊谷県,同9年群馬県に所属。同19年西尋常小学校が設置され,当村のほかに五町田・新巻両村の児童が入学し,翌20年奥田尋常小学校と改称(あがつまあづま)。同22年東村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7281990
最終更新日:2009-03-01




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