ケータイ辞書JLogosロゴ 小此木村(近世)


群馬県>境町

 江戸期〜明治22年の村名。佐位郡のうち。慶長6年伊勢崎藩領,元和2年前橋藩領,天和元年伊崎藩領。天正18年以降浪人した豪士織間・富岡らによって村づくりが始まり,元和年間大坂の陣に大役28人が出された。村高は,「寛文郷帳」で506石うち田方5石余・畑方500石余,「元禄郷帳」506石,「天保郷帳」750石余,「旧高旧領」751石余。天保2年の村明細帳によれば,新田高241石余,反別は本新田合わせて81町余ですべて畑地,家数155・人数698,馬5。元文2年に大火があり村の過半を焼失し,同5年の大火では福寿院を焼失した。また当村は利根・広瀬両川の間にあったため渡船場が2か所あった。毎年のように水害に悩まされ,農業が不安定だったため,江戸中期以降から次第に職人を兼業し,特に大工・鍛冶職が多かった。当時の鍛冶御国役の看板や古建築の棟札などの資料があり,昭和期に至るまで多くの専業者がいた。また当村には聖徳太子碑が建てられている。明和2年佐波三十四か所観音霊場が設けられたとき,福寿院が第34番札所留寺となった。江戸末期上州で名高かった画家天田熊郊は当村出身。安政5年頃石原文八は私塾琴泉堂を開き,明治の学制が布かれるまで多くの子弟を教授した。慶応年間の産物は大小麦2,269俵・大豆418俵・繭202石余・太織縞130疋・蚕種180枚などである。明治4年伊勢崎県,群馬県を経て,同6年熊谷県,同9年群馬県に所属。明治3年の家数140・人数743。同6年小此木学校開校,同17年境学校の分校となる。同22年剛志【たけし】村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7282003
最終更新日:2009-03-01




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