ケータイ辞書JLogosロゴ 女塚郷(中世)


群馬県>境町

 平安末期〜室町期に見える郷名。新田郡新田荘のうち。村名でも見える。仁安3年6月20日の新田義重譲状(長楽寺文書/県史資料編5)によれば,譲与した空閑の郷々6か所の1つに「をゝなつか」とあるのが初見。この譲状には宛所がないが,文中に「こせんのこかんなり」とあり,同年月日の同置文(同前)には「らいわうこせのハゝ」に譲った新田荘空閑の郷々19か所の1つに「をゝなつか」が見えており,「らいわうこせ」は義重の第4子義季と推定され,その母を通じて義季に譲ろうとしたものと考えられる。なお,享徳4年閏4月吉日の新田庄田畠在家注文(正木文書/県史資料編5)に「〈さかいにとらる〉おなつかの郷 田二町六反廿たい」と見える。また「上野国新田庄嘉応年中目録 持国当知行分」とある年月日未詳の新田庄知行分目録(同前)にも「女塚郷」が見える。鎌倉期の元久2年8月日の将軍源実朝下文案(同前)によれば,新田義重の嫡子義兼に新田荘内12か郷の地頭職を安堵しているが,その中に「上女墓郷」が見え,当郷が上・下に分かれていたことが知られる。長楽寺古位牌銘文(県史資料編5)には,「栄勇禅定門〈新田次郎義季⊏寛元四年十二月十五日 女塚旦那〉」「浄院比丘尼〈頼氏之女 南女塚江田之郷之旦那建治三年十二月廿三日〉」と見える。義重の第4子で得川を称した義季が寛元4年12月15日に当地を寄進したことについては,弘安4年6月15日の長楽寺住持院豪文書注進状に「一,女塚御寄進状」,観応3年3月11日の長楽寺領注文「同(新田)庄内女塚 開山檀那〈新田次郎義季法名栄勇〉寛元四〈十二十五〉」,貞治4年7月5日の長楽寺住持了宗寺領注文に「一所 女塚郷 寛元四年□□(十二)月十五□(日)□在所坪付略之,沙弥栄勇寄進之」,年月日未詳長楽寺寺領目録に「一,女塚村 寛元四年十二月十五日 沙弥栄勇寄進之」と記載されている(長楽寺文書/県史資料編5)。一方尼浄院は義季の子頼氏の女であり元亨2年11月20日の尼浄院寄進状案(同前)によれば,「上江田村内林」の替として「新田庄内南女塚村内田在家」の2宇(大宮前弥四郎跡田在家・窪田南縁荒居在家)を亡父の忌日料として寄進している。ただし,これは尼浄院の寄進地についても同様に観応3年の寺領注文に「同(新田)庄内南女塚在家二宇 浄院〈頼氏二女 元亨二 十二 廿日〉寄進」と記載されている。このことから,当郷は義兼が地頭職を得たが,その後なんらかの事情で義季の所領となり,寛元4年に長楽寺に寄進されたものであろう。その事情としては寛元2年に義兼の孫政義が在京中許可を得ず出家し所領を没収されたことが考えられ,このような場合同族中に預け置かれることが多い。康安2年7月3日の平賀重光寄進状(同前)によれば,長楽寺に上今井郷内三木の深町田1町を寄進しているが,これには「女塚彦八作」と注記がある。上今井郷三木は女塚の北に接しており彦八はここから出作していたものであろう。永和5年3月6日の造内宮料役夫工米免除状案(正木文書/県史資料編5)によれば,長楽寺領の西女塚村は「為後閑地無諸御公事」という理由で内宮の役夫工米が免除され,同様に応永8年6月5日の造外宮料役夫工米免除状案(同前)でも外宮の役夫工米が免除されている。西女塚村については他の史料には見えないが,当郷内の村であったと考えられる。なお当郷が長楽寺領であったことについては,年月日未詳ではあるが享徳年間以降とみられる新田庄内岩松方庶子方寺領等注文(同前)にも見える。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7282033
最終更新日:2009-03-01




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