ケータイ辞書JLogosロゴ 女塚村(近世)


群馬県>境町

 江戸期〜明治22年の村名。新田郡のうち。はじめ幕府領,文禄2年割いて旗本津軽左京氏領,寛文2年津軽重郎兵衛分家して領有,天和2年津軽氏領は旗本小笠原氏領となり,幕府領と相給,幕末に幕府領は前橋藩領となる。検地は文禄3年・貞享5年に実施。寛永16年境村(当時南女塚村)を分村。村高は,「寛文郷帳」で畑方250石,「元禄郷帳」262石余,「天保郷帳」262石余,「旧高旧領」同高。はじめ集落は東方の早川沿いの薬師鉱泉や東光院を中心にあったが,正保年間西方に日光例幣使街道が開通し,次第に集落は街道沿いに移り,東光院も現在地に移転し法楽寺と改められた。慶長13年新せき堀が通じた。堀割に多くの人足を差し出したが,世良田東照宮用水のため,開田に利用できなかった。田方の少ない畑作地帯で,農業は大小麦・大豆作を主とし,木綿作りをする者が多かった。木綿作は江戸後期養蚕が盛んになっても続き,木綿・生糸・太織の生産物は,隣接する境町六斎市場に売り出された。日光例幣使街道の往来増加により,入用負担・人足差出に苦しむようになり,村境にある街道土橋2か所の普請をめぐって隣村と争いが繰り返された。男は日雇を農間稼とし,街道対象の渡世はなく,商業的受益はなかった。しかし,女塚鉱泉は建久年間源頼朝の入湯伝説のある古霊泉として早くから知られ,特に日光例幣使街道が通じると次第に繁昌し旅亭が設けられ,寛政年間から文政年間にかけて最も盛んであった(栗庵日記・郷土誌)。鉱泉があったため薬師信仰が篤く,法楽寺内に多くの遺物があり,湯泉薬師道の道しるべがある。法楽寺内に祈祷坊と呼ぶ行人塚がある。祭屋台は弘化2年に造られ,祭ばやしが伝承されている。幕末の改革組合村高帳によれば,尾島村寄場組合に属し,高262石余・家数19。明治元年旗本小笠原氏領は岩鼻県,同4年前橋藩領は前橋県を経てともに栃木県,同9年群馬県に所属。幕末頃新島烏秋が私塾を開き,学制発布後も子弟教授を続けた。同22年世良田村の大字となる。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7282034
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ