ケータイ辞書JLogosロゴ 鍛冶町(近世〜近代)


群馬県>館林市

江戸期〜昭和44年の町名江戸期は館林城下19町の1つ(館林記/県史料集2)大手門の西に接する堀端沿いの町で,谷越町と片町を東西につなぐ町名の由来は,鍛冶職の住居したことによる寛文〜延宝年間頃と推定される館林先規之次第覚書(館林市立図書館旧蔵文書)によると,町内には鍛冶職の者11人が居住,彼らの定められた職役は年130人とある南東に鍛冶職の神の金山神社がある同社は明治43年代官町の長良神社に合祀されたが,のち旧社地に再祀されたなお館林城下6月6・7日の牛頭天王夏祭には,当町から刀鍛冶の山車を出す慣例で,弘化3年前藩主井上氏から秋元氏への引継書に「笠鉾一本,出し小鍛冶宗近,鍛冶町」と見える(館林藩史料/館林双書)「館林記」による延宝2年の家数は萱葺家25,人数は男57・女50,馬2(県史料集2)弘化3年の町方引渡帳(館林藩史料)では,長さ1町48間,家数29「嘉永元年館林城下地図」では家数28明治期に入ると,「県邑楽郡町村誌材料」による耕宅地9反1畝余町名は,明治22年館林町館林,昭和29年からは館林市館林の通称町名として存続してきたが,同44年本町1〜4丁目となる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7282104
最終更新日:2009-03-01




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