ケータイ辞書JLogosロゴ 金井村(近世)


群馬県>渋川市

 江戸期〜明治22年の村名。群馬郡のうち。幕府領。当地は関東平野北西の山間に入る谷口集落で,吾妻川をさかのぼり吾妻から信濃の国へ,また利根川をさかのぼり利根から越後の国へ行く交通の要地であった。江戸期は三国街道の金井宿として見える。三国街道の置駅に関しては,慶長10年の植野堰最初掘立御普請之事(武井家文書)に「三之宮七日市場より大久保宿を出し,梅木谷戸より渋川宿を出し,下金井より金井宿を出し,小野子より横堀宿を出し……」と記されている。当宿は幕府の街道整備令により計画的に設置された。村高は,「寛文郷帳」で977石,「元禄郷帳」1,251石余,「天保郷帳」1,266石余,「旧高旧領」1,267石余。当宿は南北に直走する往還に沿い300間の長さである。地割りは間口10間・奥行き20間で,夜盗道まで宅地としている。用水路は北西の丘陵から東流し,宿の西北端で分かれて東西両側の屋敷裏を南流,宿の南端で再び合流して吾妻川に注いでいる。当宿の特色は地割りで間口が広いこと,用水の引き方を工夫していることなどである。間口10間は農家風の地割りで,家は街道に向かず南向きで,農業をしながら宿の役割りを果たしていた。このことから当宿は設置以来都市的な発達をみなかった。用水路は金井宿が計画的につくられた時,同時に引かれたものである。東西の屋敷裏を南流させるための分水点は全国に例がなく,現在も保存されている。当時は飲料水・防火用水・牛馬の給水に重要な役割を果たしてきた。当宿は中山道高崎宿から分かれて北上する三国街道の金古・渋川に次いで3番目の宿であり,杢ケ橋の関所をすぐ近くに控えており,洪水などで川どめとなった際旅人が滞留するために特に必要であった。文政年間頃の木版刷「諸業高名録」には酒さかな・そば・うどん・お料理・お休み所の野村九蔵,御詰所の清水大三郎,御泊所の石田屋八衛門,御泊所の岸忠左衛門などが出ている。安政2年の渋川村組合村々地頭性其他書上帳(堀口家文書/県史資料編13)では家数181,人数男379・女315,馬56,茶屋2(野村屋・松本屋)・旅籠屋3(和泉屋・金升屋・岸)などが出ている。嘉永6年101軒を焼失する大火にあった。これは吾妻川沿いの宿の対岸北牧【きたもく】村十一屋から出火し,南牧【なんもく】村や当村まで飛び火し,当村の人々は北牧村へ鎮火の応援に行ったが,関所や渡船の綱が燃えて帰れず,北牧村から当村が燃えるのを見ていただけだったという。氏神は八坂神社で,寺は元金井から宿の北端西側に移転した天台宗金蔵寺があり,宿の人々に信仰された。このほか地蔵尊・円通庵・薬師堂・地蔵堂などが三国街道付近にある。幕末の改革組合村高帳によれば,渋川村寄場組合に属し,高1,266石余,家数165。明治4年前橋県,群馬県を経て,同6年熊谷県,同9年群馬県,同11年群馬県西群馬郡に所属。同12年金井・南牧・阿久津村が連合して戸長役場が当村に設置され,同17年には川島・祖母島【うばしま】村も加わり5村が連合した。明治13年頃座繰機械を使った製糸工場が設立された。明治7年金蔵寺を使用して金井小学校が開設,生徒数男59・女34。同22年金島村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7282149
最終更新日:2009-03-01




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