ケータイ辞書JLogosロゴ 上新田村(近世)


群馬県>玉村町

 江戸期〜明治22年の村名。群馬郡のうち。はじめ前橋藩領,延享4年から幕府領。村高は,「寛文郷帳」で920石余うち田方643石余・畑方277石余,「元禄郷帳」同高,「天保郷帳」920石余,「旧高旧領」同高。慶長年間開墾して玉村新田町と称し,正保4年上新田・下新田両村に分村(郡村誌)。その後両村で玉村宿を形成する。はじめ石高920石余うち488石9斗3合は駅場につき諸役御免であったが,明和元年から全石高につき諸役御免になっている。安政2年の村明細帳(井田家文書/県史資料編14)によれば,反別は88町1反余うち田方46町余・畑方42町余,家数142,人数584うち男292・女292,ほかに下男41・下女48,馬43,その他沙弥家数8・人数24,馬1。明和年間日光例幣使街道が道中奉行の支配下に入り宿場制度が確立されて以来,人口・家数ともに明治初年まで大差はない。この間の人口移動は,婚姻縁組などによるものと借家出稼奉公によるものと半々である。玉村宿は中山道倉賀野宿から分かれた日光例幣使街道第1番目の宿で旅籠屋軒数62うち飯売女を置いた家が36あり,この数は当街道最大である。問屋場は上新田・下新田両村に1軒ずつあり交替で宿御用を務めた。御定立人馬は25人・25匹,御用囲人馬は5人・5匹であった。問屋名主は代々井田金七郎家で田畑14町余,下男・下女十数人を持ち,酒造雑貨などを商う商人でもあった。毎年日光例幣使の宿泊は4月11日であるが,年4,5回の大通行のほか,寛永13年の尾張藩主徳川義直の通行記録がある。玉村宿を南北に走る道路に佐渡奉行街道があり,毎年春から秋にかけて佐渡送り囚人が護送され,天保6年7月には囚人44人が宿泊している。当地には十数軒の囚人宿があり,関東取締出役や火付盗賊改との関係が深く,囚人預りや役人宿泊賄などの費用は宿会計に多大の負担を強いていた。安政3年問屋場で扱った御用件数576うち火盗・八州取締出役関係の扱件数190。国定忠次は捕縛後当宿で取締出役中山誠一郎の取調べを受け,江戸送りまでの上州最後の数日を送っている。京都からの陸運や江戸からの利根川水運による交通が当宿に新しい文化をもたらし,著名な文化人・学者を輩出させた。旅籠万屋の主人千輝玉斎は,文政元年27歳頃婿入りし,玉村宿第一の旅籠をつくりあげた。また玉斎は絵画・茶道・活花・彫刻その他幅広い豊かな知性と天分を持ち,特に洒脱な鳥羽画風の筆致である絵画は上毛画壇屈指の地位を確保し,多くの文人・墨客が彼の周辺に集まり華やかな社交センターを形成した。代表作に豊年満作の図・橋上人物百態などがある。井田蘓南は名主井田金七郎の弟才助の子で,漢学・詩文・書道に秀で亀田綾瀬門下の逸材であった。江戸期玉村宿は数回火災にあったようであるが,慶応4年正月11日は4丁目関根屋から出火し,風下であった全戸47軒(井田家のみ焼け残る)が残らず焼失し,中心部の4丁目は壊滅した。幕末の改革組合村高帳によれば,上新田・下新田両村の玉村宿ほか24か村組合の寄場村となっており,高920石余,家数111。明治元年岩鼻県,同4年群馬県を経て,同6年熊谷県,同9年群馬県,同11年群馬県西群馬郡に所属。同22年玉村町の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7282291
最終更新日:2009-03-01




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