ケータイ辞書JLogosロゴ 上高浜村(近世)


群馬県>榛名町

江戸期〜明治2年の村名群馬郡のうち烏川中流左岸の台地上に位置し,標高240〜152.9mの北高南低の地形になっている正保3年高浜村から分村はじめ安中【あんなか】藩領,寛文2年幕府領,同6年中島藩領,同12年幕府領,延宝6年安中藩領,天和元年安房勝山藩領承応3年の安中領高浜村御縄打水帳(木暮弥太郎家文書/久留馬村誌)では,村高・反別の記載は上高浜村・下高浜村に分かれていないが,屋敷1反歩・庄屋2人分御縄除とあり,分村のことがうかがえる村高は,「元禄郷帳」285石余,「天保郷帳」341石余,嘉永元年の中山道板鼻宿寄場改革組合村石高帳(福田家文書/県史資料編10)によれば285石余元文5年の宗門改帳上高浜村(木暮弥太郎家文書)によれば,家数39・寺2・道心2計43,人数256うち男136・女117・出家2・道心1,明和5年の村中人数改良出覚(木暮政彦家文書)では人数250,安永9年家数人馬改書上覚(同前)では人数214,馬10当村は榛名【はるな】山南東麓中野秣場札元13か村の1つ元禄年間に室田3か村内野秣場と境論が起こり,同17年裁許(新井家文書)宝暦10年には中野秣場野付6か村と札元13か村との間に争論が起きている(神沢家文書/県史資料編10)安永3年西明屋村と入会境論があり,山論御裁許御絵図・札の入会立会鑑絵図差出控(木暮政彦家文書)などが残っている中山道板鼻宿助郷村の1つで,寛保2年の板鼻宿助郷御伝馬割替訴状(木暮弥太郎家文書)によれば,本郷村・白川村などと,保渡田村・下柴村・生原新田への助郷割替願を出している明和元年の板鼻宿人馬勤高書上帳(木暮八一郎家文書/県史資料編10)には,宝暦3年から明和元年までの各年の人馬勤高が記されているそのほか安永元年の助郷村々願の事(木暮政彦家文書),天保13年の板鼻宿寄場宿村組合内議定書(清水作太郎家文書),文久元年の和宮様御下向に付万控帳(同前)などに村名が見える当村と下高浜村の村境にあると思われる字駒形の駒形神社は,永仁6年写の上野国神名帳(総社神社文書)に見える群馬郡内西郡の分中の正五位駒形明神と推定されているが,上・下高浜村の鎮守社となっている字遠北・茅井に白山神社がある字中通にある天台宗高浜山不動院観音寺の旧跡は字日輪(現第六小学校校庭の一角)にあり,同寺には慶長6年入寂した,開山奝尊法師の位牌がある幕末の改革組合村高帳によれば,板鼻宿寄場組合に属し,高285石余,家数35明治2年高浜村の一部となる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7282303
最終更新日:2009-03-01




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