ケータイ辞書JLogosロゴ 上武士村(近世)


群馬県>境町

 江戸期〜明治22年の村名。佐位郡のうち。天正18年由良氏が没落すると,多数の武士団が土着帰農して村づくりを行ったといわれる(郷土誌)。はじめ幕府領,寛永2年旗本野々山氏知行,寛文12年旗本上田氏知行。検地は寛永6年に実施され,村高は,「寛文郷帳」で畑方290石余,「元禄郷帳」291石余,「天保郷帳」286石余,「旧高旧領」同高。天保11年の年貢割付帳によれば,すべて畑で286石余・反別77町余。皆済目録では毎年本途100両余,山年貢6両余でほとんど変動がない。文化2年の明細帳によれば人数324,家数は不明,周村には助郷役があったが,当村は早くから下武士渡船役を課せられ,明和3年道中奉行の渡船場証文を得てから,ほかの課役は一切免除された。渡船役は大きな入用と人足を必要とした。畑地のみで農業の進歩がなく,男は農間に日雇稼ぎ,女は糸取り織物に携わった。地内には100余の古墳群があり,農耕に適さない原野的秣場が多かった。隣村下武士との村境は肥料源の秣場であるため女堀を挟んだ境論は寛文10年から長く続いた。慶安3年には北方平坦原野字萩原の所属をめぐり下武士村と争い敗れた。城山の古城跡は江戸期になると館の山と呼ばれ,広瀬川の懸崖上にあって景に富んだ。そのため遊客が多く,浴塘が設けられて繁昌した。館の山麓から頂上まで百庚申が並び,天保6年上武両州の文人100余人が集まった野外大園遊会は,今日に幾多の文芸記録を残している。能満寺は関東十八檀林の名刹であるが,たびたび火災に遭い,文政4年再建された。境内に芭蕉句碑がある。明治元年岩鼻県,同4年群馬県を経て,同6年熊谷県,同9年群馬県に所属。同12年下武士・保泉【ほずみ】と3か村連合戸長役場を置いた。早くから学問が盛んで,文政年間から池田班雪,能満寺和尚,安政年間からは門倉武平次・高山弥一郎が私塾を開いて子弟に教授し,学校開設に及んだ。明治7年永運寺に下武士・保泉・上武士連合の武士学校が開校した。明治22年剛志【たけし】村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7282308
最終更新日:2009-03-01




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