ケータイ辞書JLogosロゴ 上野田村(近世)


群馬県>吉岡町

 江戸期〜明治22年の村名。群馬郡のうち。当村と下野田村でもと野田村と称し,元和2年分村した。はじめ高崎藩領,元禄11年幕府領,のち旗本大久保3氏と内藤氏の相給となり,正徳2年大久保源右衛門領は旗本有馬兵部領に変わった。「寛文郷帳」544石余うち田方392石余・畑方152石余,「元禄郷帳」「天保郷帳」ともに550石余,「旧高旧領」548石余。天保9年の家数96・人数439,家数のうち52軒は農業一統渡世,44軒は農間商いならびに諸職人渡世となっている。なお鎮守は滝泉宮,寺院に天台宗東福寺・常仙寺,修験大善院。中山道板鼻宿への助郷を勤めたが,当村自体も伊香保街道の宿場として機能した。宿場として発足したのは慶長年間と伝えられ,宿通りは東西に延び,長さ6町・道幅3間。北側道路脇には水路があり,灌漑・防火・雑用水として使われたが,水車を回して街道を行く牛馬の飲用水にも使った。宿場は西高東低の傾斜地のため,屋敷地は短冊形にとられて段差があり,門口・奥行は一定していない。道路を挟んで両側に,屋号や呼び名を通り名にもつ家々が25軒ずつ並び,中央には本陣問屋を兼ねた森田家があり,その前が継立場となっていて札の辻と呼ばれ,札の辻から西を上之町,東を下之町と呼んだ。この家並みの外側にも1間幅の間道があり,これを土地では夜盗道と呼んでいた。また家々が立ち並ぶ北裏を町裏,その南側を町南と呼ぶ。町南に5本,町裏に3本の農道があり,のちにはこの新田地域にも12軒の人家が建ち,野田宿に加わった。水利は滝沢川の水を引いた。寛延3年当村は下野田村とともに小倉村との間に水争いを起こし,幕府の裁許を得て胴木を伏せ,全水量のうち上野田村・下野田村が8分,小倉村が残り2分を引水することで和解した。その後も水争いが起こり,その原因が水不足にあることから,天保4年森田四郎兵衛は窮状を打破するため,伏せ樋1,700間を伏せて地下に浸透する水を防いだ。また同13年には面積6町の平石の堤を作り,水田灌漑用水とした。文化11年の百姓耕作仕方控(森田家文書/県史資料編13)による栽培作物は,稲・大豆・小豆・ササゲ・粟・ソバ・大根・ゴマ・麻・ナス・モロコシ・大麦・小麦など。なお森田家は世襲で大久保村の名主も勤め,当村から船尾滝に至る滝沢川流域全般の山林を所有し,また当村以外の村々にも土地を所有していた。当主は代々地方の文化人で,四郎兵衛は梅園と号し書を能くし,門右衛門は梅子と号し狩野派の絵画に巧みであった。漢詩をよくした幕末の志士梁川星巌は森田家に逗留したことがある。また高野長英も当村を訪れている。なお三国街道沿いには桃山期の建築様式を伝える桃井館があり,旅人の旅程の道しるべとなった一里塚もある。また鎮守滝泉神社の東にはかつて農村歌舞伎の舞台があった。明治維新時の打毀の際,当村出身の相撲取り鬼風が頭取となり,この舞台を居として活動したという。なお,幕末の改革組合村高帳では,渋川村寄場組合に属し,高550石余,家数73。明治4年前橋県,群馬県を経て,同6年熊谷県,同9年群馬県,同11年群馬県西群馬郡に所属。地内には明治6年創立の上野田小学校があり,常泉寺を仮校舎とし,その生徒数男40・女2とある。同22年明治村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7282350
最終更新日:2009-03-01




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