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- 木島郷(中世)とは
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![]() | 木島郷(中世) 室町期~戦国期に見える郷名高井郡のうち鬼島村とも見える飯山盆地の千曲川右岸に位置し,南は高社山,南東は上信越山岳地域であり,東は樽川を境として毛見郷・犬飼郷に接する中野平からの古道として,田上より高社山北麓の牧ノ入を経るもの,高社山東の須賀川を経るものなどがあり,志久見郷に至る道として,馬曲峠に行く道,小菅荘を中継する道などがある永享6年6月5日の蘆名盛政譲状に不知行地として「信濃国木島郷」が見える(首藤石川文書/信史補遺上)それより先の寛喜元年11月28日の左衛門少尉兼政書状,同年12月13日の守護北条重時御教書によると,木島兵衛尉の配下が中野馬允領志久見山内に入って鷹の子を盗み幕府へ訴えられている(市河文書/同前4)その後明徳3年3月日の高梨朝高言上状案には,朝高の配下として木島朝末が見え(高梨文書/同前7),戦国初期成立の諏訪御符礼之古書には,文明13年高梨政盛の代官に木島秀宗がいる(信叢2)長享2年の春秋宮造宮次第によれば,秋宮の御柱4本のうちの一つを「木島」が負担している(同前)天文11年5月の「小菅山八所権現并元隆寺来由記」によれば元隆寺末院として「鬼島村 普明寺」が見える(小菅神社文書/信史12)下って天正6年の下諏訪春秋両宮造宮帳に天文11年の所役として秋宮四之御柱造宮領事に「安田・底和田・野坂田・下木島・上木島」が見え,都合54貫200文の負担となっており,同年の下諏訪秋宮造宮帳にも同様に見える(信叢2)天正7年2月8日,武田勝頼が小野社の造営を高井郡の諸郷に割りあてた18か郷の中に「木島」が見え(小野文書/信史14),天正年間,諏訪社上社の神長知行之書にも「一,三十貫文〈同(高井)郡〉木島上下」と見える(泉竜寺文書/同前14)また,文禄3年正月27日「木島郷斗見村長沢山泉竜禅寺」前住持正佶の法衣が某に譲られているなお謡曲「柏崎」には「野辺の木島の里」と見えるが当地のことか(信史11)江戸期の上木島村・下木島村,現在の木島平村上木島,飯山市下木島に比定されるなお木島氏館跡の候補地として,寛延4年の上木島村新田検地帳に「古堀跡」が見える |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」