ケータイ辞書JLogosロゴ 北下村(近世)


群馬県>吉岡町

 江戸期〜明治22年の村名。群馬郡のうち。はじめ高崎藩領,元禄11年幕府領,のち旗本下川氏・大久保氏・内藤氏・大久保氏・川勝氏などの6給となる。寛文年間下村が北下村と南下村に分村して成立といい,「寛文郷帳」には下村が記されている。「元禄郷帳」では村名が見え,村高655石余,「天保郷帳」では村高656石余,「旧高旧領」は村高655石余。安政2年の同組合村柄書上帳(堀口家文書/県史資料編13)によれば,同じく旗本6給で,家数110,人数は男210・女227,馬15,農間稼ぎは男が秣・柴・薪などの取入れ,女が絹糸・木綿などの糸引き,産物は蚕のほかになく,江戸へ出荷するものもないとある。地内を西から東へ小河川が流れるが,水量が少ないため,諏訪台東方に堤を作り,この貯水を田用水とした。また地内を三国街道が通る。同街道沿いには民家が密集して宿新田の名で呼ばれ,往来の旅人相手の商家も建ち並んでいた。下村の分村に際して,宿新田は北下村とともに1村を形成した。なお宿新田の年貢は,高崎藩領時代の元禄元年の年貢割付状(馬場家文書)によると,等級上から下々の畑と屋敷地で反別18町9反余,その永納20貫723文。幕府領となって,同11年の年貢割付状(同前)では反別4町7反余,納金永4貫686文となっている。なお内科医であった馬場三太夫重久は,当村で医療のかたわら自ら養蚕を行い,正徳2年に「蚕養育手鑑」を著した。同書は日本初期の養蚕手引書であった。また馬場鍬と呼ぶ手鍬を発明し,陣場桑として稚蚕に与える桑苗の新種を作るなどした。馬場協安,その子吉兵衛信晴は,医師のかたわら寺子屋教育に力を尽くした。騒動としては,元禄6年漆原村・上野田村・下野田村・小倉村・南下村・池端村とともに,当村は有馬村・八木原村を相手に中子山秣場境界争いを起こしている。この争論は同年高崎藩役人の判決言い渡しにより和解した。秣場をめぐっては,このほかにも数多く争論が引き起こされたが,明和年間以降当村は秣場の二ツ岳に湧出した蒸湯をめぐる騒動にもまきこまれた。この騒動は明治期まで続いたが,明治18年係争地が官有地となり,蒸湯の湧出も止まり,騒動はいつとなしに終結した。なお,幕末の改革組合村高帳では渋川村寄場組合に属し,高655石余,家数100。明治4年前橋県,群馬県を経て,同6年熊谷県,同9年群馬県,同11年群馬県西群馬郡に所属。地内には明治8年高唱寺を仮用して開校の下村小学校があり,生徒数男18・女3,また寺院は天台宗高唱寺,神社は諏訪社・白山社・八幡宮・熊野社・稲荷宮とある。なお明治2年8月陣湯宿新田は北下村からの分村願いを出したが,面積の狭小さと戸数・人口の少なさのため一村と認められず,却下された。同18年三国街道が改修され,地内東部を清水越新道が開通し,関東と越後を結ぶ近道が開け三国街道にとってかわった。同22年明治村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7282509
最終更新日:2009-03-01




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