ケータイ辞書JLogosロゴ 葛塚村(中世)


群馬県>新里村

南北朝期に見える村名勢多郡山上保のうち建武元年11月27日の太田貞宗寄進状(神田孝平氏旧蔵文書/県史資料編6)によれば,「上野国山上保葛塚村諏訪両社〈上下〉神事并灯油等䉼(料)田事」として「当保田部村新平三入道作田屋敷并葛塚村和泉房作田屋敷,源六入道跡田屋敷河ハタ田等」を「限年紀沽却」し,年紀以後は諏訪社に寄進している現在山上字諏訪に諏訪神社が鎮座し,同社は山上高光が治承年間にここに勧請したという南北朝期と推定される年未詳3月18日の宇都宮氏綱宛鎌倉公方足利基氏書状(同前)には,「大田美作孫七郎邦康申,上野国山上保内田部・蒲井・葛塚村等事,退違乱輩,全知行様ニ可有計沙汰候」とあり,大田邦康の訴えにより当地への違乱の輩を退けるよう命じられており,大田氏が当地を知行していたことがわかる長享2年と推定される年未詳3月16日の赤堀上野介宛上杉顕定書状(赤堀文書/県史資料編7)には「葛塚之要害へ佐野周防守差懸相攻之間,及防戦砌,速有合力得勝利」と見え,当地に下野【しもつけ】佐野氏が攻め入った際赤堀氏は上杉方として防戦に及び勝利したことを賞している下って,永禄10年の由良成繁事書案(由良文書/同前)は新田金山城主の由良氏と善・山上氏の関係を述べた文書であるが,「依被仰出,葛塚地お取立三ケ年差置番手,剰於号奥沢地,佐野周防守与遂一戦,得勝利後,彼両名守心易在所被致本意候」と見え,善・山上両氏は享徳の乱に上杉方についたため,公方方の佐野周防守に攻められて在所を奪われたそのため金山城主由良成繁は合力して軍を出し,葛塚の地を奪い返して両氏を入れ,3年後に佐野氏を破って旧領に復させたというこの合戦に関連のある年未詳12月18日の赤堀上野介宛上杉顕定感状(赤堀文書/群馬県古城塁吐の研究補遺上)によれば,12月14日に当地を上杉方が攻撃した時,赤堀上野介も合力して手柄を立てたとしてこれを賞している葛塚村については現在比定できる地名はないが,諏訪社の位置からみて,現在の新里村山上付近と推定される
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7282555
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ