ケータイ辞書JLogosロゴ 窪井村(中世)


群馬県>新里村

南北朝期に見える村名勢多郡山上保のうち応安6年2月9日の沙弥道羸寄進状案(長楽寺文書/県史資料編5)によると,道羸は「上野国山上保窪井村内善昌寺」を新田荘世良田長楽寺末寺として同寺の塔頭大通庵主妙桂都寺禅師に寄進している善昌寺は新里村新川久保井にある古刹で,大同年間開基と伝えられるが,寺域は中世館跡で,寺の裏手には鎌倉期から南北朝期と推定される凝灰岩製の五輪塔群などの石造物がある暦応元年新田義貞が越前で戦死したあと,その首を義貞の遺臣船田義昌が持ち帰り供養したというまた,寺名も船田義昌からとったともいう南北朝期と推定される年未詳3月18日の宇都宮氏綱宛鎌倉公方足利基氏書状(神田孝平氏旧蔵文書/県史資料編6)に「大田美作孫七郎邦康申,上野国山上保内田部・蒲井・葛塚村等事,退違乱輩,全知行様ニ可有計沙汰候」とあり,山上保のうちに蒲井の地名が見え,これが窪井のことと推定され,大田邦康の訴えにより当地などへの違乱の輩を退けることが命じられていることから,当地は大田氏の知行下にあったことがわかる現在の新里村新川字久保井に比定される
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7282568
最終更新日:2009-03-01




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