ケータイ辞書JLogosロゴ 小泉村(近世)


群馬県>玉村町

 江戸期〜明治22年の村名。那波郡のうち。はじめ前橋藩領,延享4年幕府領,宝暦6年旗本戸田氏領,文政5年幕府領天保8年旗本戸田氏領。村高は,「寛文郷帳」で114石余うち田方26石余・畑方88石余,「元禄郷帳」同高,「天保郷帳」115石余,「旧高旧領」同高。天明8年の検地では田畑と屋敷合わせて19町余。川沿いの当村は寛保2年・天明3年・同6年とたびたび水害を被ったが,特に天明3年7月の浅間山焼けでは降灰が25cmに及び,同6年には大洪水とともに泥土・礫岩が堤防を破って流れ込み,良田・民家を押し流し,砂礫・泥土は耕地を埋めて村民の生業を圧迫した。このようにたび重なる水押し変地でしばしば隣村と境界争いを起こし,文政9年の沼之上村との境界争いでは訴訟問題となりやっと解決した(五料区有文書)。24か村組合村大惣代の三右衛門日記(渡辺家文書)によれば,文化3年の家数27うち潰百姓9,安政2年の家数18うち水呑百姓3。助郷は115石のうち98石余で御伝馬を勤め,明和元年野州天明宿での十三宿評議道法支配取究によって日光例幣使街道五料宿から玉村宿方向64間の道普請を受け持ったが十分に行われず,天保6年には下之宮・箱石・南玉3か村の村民とともに五料宿役人の指図に従わなかったため,宿役人はついに出府訴訟をして解決を図った(五料区有文書)。なお例幣使は,30・50・100・150・200回などの神君年忌には大勢が京都から下ったが,明和2年の150回忌,文化12年の200回忌には50人もの公卿・宮家・門跡が下り,近衛左大臣の下向には長持など36棹・駕籠90余挺で,人足459人・本馬31疋を要している。また文久元年の和宮下向には,当日11月10日に18人,当日前の3日間は毎日1人ずつ板鼻宿まで出向し,合宿の本庄まで勤めなければならなかった。組合村24か村で掛り46両を高100石につき1貫400文ずつの村掛として2両1分を醵出した(渡辺家文書)。幕末の改革組合村高帳によれば,玉村宿寄場組合に属し,高105石余,家数16と見える。明治元年岩鼻県,同4年群馬県を経て,同6年熊谷県,同9年群馬県に所属。飯玉神社は祭神保食命,境内に諏訪社があり,庚申塔・道祖神塔・大黒天塔・石殿など20基がある。学校は明治6年沼之上小学校,翌7年隣2か村共立の谷川小学校,同18年那波第一小学校第2分校を沼之上村に置き,同19年五料小学校となる。同22年芝根村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7282623
最終更新日:2009-03-01




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