ケータイ辞書JLogosロゴ 猿ケ京(中世)


群馬県>新治村

 戦国期に見える地名。吾妻【あがつま】郡のうち。永禄8年と推定される年未詳正月8日の上杉輝虎書状(双玄寺所蔵文書/埼玉県史資料編6)によれば,武田信玄の上野侵入に対して,沼田在番衆に「其地之事者不及申,猿京・小河・森下之用心,不可有油断候」と見え,当地などの防備を固めるよう命じている。天正元年と推定される年未詳9月11日の上杉謙信書状(東京大学史料編纂所所蔵栗林文書/県史資料編7)では,黒川谷の戦に上杉勢が利を失った後,家臣の河田吉久・新保清右衛門・栗林政頼らに対して「浅見ニ成共,猿京成共ニ相待,一度ニ可供候」と命じており,当地が越後への中継地となっていることが知られる。上杉謙信の死に伴って起こった上杉家の内紛は,当時上杉の支城であった沼田城(倉内城)の在番衆にまで波及するが,天正6年5月18日の上杉景勝書状(管窺武鑑/群馬県古城塁趾の研究補遺上)には「如注進者・猿ケ京へ自倉内相働之由申候哉」と見え,倉内城の将河田重親らが小田原北条方につき当地に攻撃を加えたことに対し,坂戸城の将深沢刑部少輔に当地に援軍を遣すよう命じている。これに対し同年と推定される年未詳5月21日の上杉景勝書状(伊佐早文書/県史資料編7)には「如注進者,猿京へ働,凶徒追散之由,目出ニ候」と見え,深沢刑部少輔に当地での戦功を賞している。しかし同年と推定される年未詳5月24日の上杉景勝書状写(上杉年譜所収文書/同前)では「然者従猿京,早々加勢可差越由申越候哉如何」と見え,当地の上杉勢は形勢不利となり再度援軍を要請している。翌7年と推定される卯の5月21日の北条氏邦感状写(片野文書/埼玉県史資料編6)には「猿ケ京之城岸ニ而,山口甚七郎生捕候之事,無比類候」と見え,片野善助が当地での戦功を賞されている。同年と推定される卯の6月10日の北条家朱印状(細矢菊治氏所蔵文書/同前)は前欠であるが「此段猿京番衆へ可申越旨」と見え,当地には小田原北条方の番衆が置かれたことがわかる。翌8年閏3月25日の木内八右衛門宛北条氏政感状写(安得虎子/同前)には「今度猿ケ京衆相談,上田庄荒戸山押払,為始樋口数百人討捕候」とあり,当地が北条氏の越後攻めの拠点となっていたことが知られる。同年5月6日の真田昌幸定書(本多夏彦氏所蔵森下文書/同前)には「今度其方以調略,猿京於本意者」とあり,武田方の将真田昌幸が森下又左衛門に対し,当地を攻略した際には所領を宛行うことを約している。同年沼田城は真田昌幸に明け渡され,翌9年と推定される年未詳6月7日の武田勝頼条目(真田家文書/同前)では「一,猿京用心普請仕置以下,入手念可被申付事」と見え,当地にあった城の普請を真田に申し付けている。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7282883
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ