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- 塩沢村(近世)とは
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![]() | 塩沢村(近世) 江戸期~明治22年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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![]() | 塩沢村(近世) 江戸期~明治11年の村名三河国八名郡のうち豊川支流大入川の流域弥生時代の大入遺跡がある天正元年長篠城攻略では徳川家康が字陣場に布陣したといい,同3年長篠の戦では字樋田に川路城主設楽甚三郎,代官夏目久四郎などが在陣して武田軍の敗走兵と対戦したはじめ幕府領,寛文8年武蔵岡部藩領,元禄14年岡部藩と旗本安部氏の相給を経て,宝永5年からは岡部藩と旗本安部2氏の相給なお明治元年岡部藩は改称して半原藩となる村高は,「寛永高附」288石余,「元禄郷帳」348石余,「天保郷帳」400石余,「旧高旧領」404石余慶長9年検地帳では,高288石余,田9町余・畑14町余明治初年頃の戸数106(八名郡誌)地内の字野畑に塩沢の渡しができ,明治期まで豊川筋第一のにぎわいをみせた天保11年の東上村御番所差出では船持4人嘉永元年の船数8寺社は,文治年間創建という日吉神社(山王権現),曹洞宗善勝寺・増泉寺(明治6年廃寺),小御堂善勝寺には徳川家康が当村に布陣した際に使った茶釜が伝存小御堂には寛政11年木喰上人作の十一面観音を安置明治7年乗本学校出張所,同9年日吉学校をそれぞれ創立同11年の反別30町余,高404石余,戸数82・人口337同年日吉村の一部となる... |
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![]() | 塩沢村(近世) 江戸期~明治8年の村名諏訪郡のうち朝倉山の南西,上川中流右岸に位置する高島藩領村高は,「慶長高辻」114石余,「正保書上」134石余,「元禄郷帳」114石余,「天保郷帳」173石余,「旧高旧領」309石余家数は,享保18年の「諏訪藩主手元絵図」で72村の北東に塩沢城(朝倉山城)があるこの城は霧ケ峰山塊が南に延びて切れる先端にあり,小県【ちいさがた】・佐久への要路大門街道を見張る場所にあたる天文年間塩沢安兵衛が武田信玄に従って戦功をたて,朝倉の城を守ったと伝えられるこの城と指呼の間に湯川城があって,信玄が北信濃攻略の軍を進めたとき,湯川城は兵馬のたまり場となり,塩沢城は狼煙台として使用されたといわれている明治4年高島県を経て筑摩県に所属同6年の戸数86・人口342(県市町村合併誌)同8年米沢村の一部となる... |
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