ケータイ辞書JLogosロゴ 鹿田郷(中世)


群馬県>笠懸町

 室町期に見える郷名。新田郡新田荘のうち。享徳4年4月吉日の新田庄田畠在家注文(正木文書/県史資料編5)に「しかたの郷 田五町八反十たい 畠四丁 在家七う」「〈さかいにとらる〉きたしか田の郷 田二町九反卅たい 畠三丁 在家一う」と見える。享徳年間以降と推定される年月日未詳の新田庄知行分目録(同前)は新田荘の所領関係を書き記したものであるが,そのうちの岩松持国の当知行分の中に「鹿田郷」が見え,「他庄江被押領地之事」の1つに「北鹿田郷 西庄へ押領」と注記されている。またこの文書にも「新田庄嘉応年中目録」の文言があって,前文書との関連が考えられる。それと同じく享徳年間かその直後と推定される年月日未詳の岩松持国知行分注文(同前)は持国の所行分のみを記した文書であるが,これには「一,鹿田郷 上阿佐見郷 赤堀押領分」とある。また同じく年月日未詳の新田庄内岩松方庶子方寺領等注文(同前)によれば,持国の所領のうちに「一,泉沢 しか田郷」と見える。泉沢は現在の笠懸町鹿の字北口の旧称で,現在も俗称として使われており,館跡が残る。これらの文書はすべて享徳年間以降の内乱期のものであり,当郷はいずれにしても岩松持国の所領であったことがわかる。北鹿田郷については西荘(佐井荘)に押領されたと記されているが,享徳3年以降の戦乱によるものと考えられる。年未詳2月21日の赤堀政綱宛足利成氏書状(赤堀文書/県史資料編7)によれば,「岩松治部大輔以下凶徒等,鹿田・泉沢へ罷出」て合戦に及んだという。鹿田・泉沢合戦は岩松家純が赤堀氏らを攻めて起こったものであり,寛正年間頃と推定される。戦国期においては,永禄13年3月22日の上杉輝虎判物(赤堀文書/同前)によれば,赤堀上野守に「しかた之村」以下の所領を宛行っている。天正13年正月5日の北条家朱印状(吉沢文書/上毛及上毛人64)によれば,当郷に禁制を発給し,百姓の還住と軍勢甲乙人の濫妨狼藉の停止を命じているが,これは,天正12年から同13年にかけて小田原北条氏が太田金山城を攻めたときのものである。なお前述の泉沢については天正16年10月7日の年紀を有する清泉寺毘沙門堂棟札銘(上毛及上毛人197)に「上州新田庄泉沢」と見える。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7282918
最終更新日:2009-03-01




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