ケータイ辞書JLogosロゴ 下秋間(近代)


群馬県>安中市

 明治22年〜現在の大字名。はじめ秋間村,昭和30年安中町,同33年からは安中市の大字。明治24年の戸数208,人口は男518・女527,水車場1,明治22年当地の秋間小学校,西上秋間の飽馬西小学校,東上秋間村の飽馬東小学校,中秋間の中秋間小学校の4校が合併して秋間尋常小学校となった。2年生まで児童は飽馬東小学校を移築した東分校に通うことになった。同分校は昭和3年改築,同30年の生徒27・教師2。同33年通学区が変更され,廃校となった。下秋間地区には褐炭が産出することから鉱業が起こり,明治21年から同27年にかけて字上平で須永勘五郎と湯本文治郎,字道ノ入ほか2字と字大谷津で新井清兵衛がそれぞれ1万坪以上の坑業借区地を設定,特許を得ている。「県勧業統計」によれば,大正7年の湯沢炭鉱の亜炭の採掘高69万9,000斤,販売価2,400円,工夫5人,同6年岩井炭鉱の採掘高15万斤,販売価300円,工夫4人,石炭鉱山の採掘高3,690斤,販売価174円,工夫2人。自性寺焼については「県統計書」によれば,明治35年の製造戸数2,登り窯(1筋・11間),男工2,製造価額450円の記載がある。昭和54年自性寺陶芸村ができ,自性寺焼が復活した。相水川の上流県道下里見安中線の西側に昭和52年下秋間カントリークラブがオープンした。同55年から同60年にかけて雉子ケ尾峠を抜ける県道安中榛名湖線が改修された。昭和49年相水谷津集合所,同56年自性寺集会所が建設された。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7282970
最終更新日:2009-03-01




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