ケータイ辞書JLogosロゴ 下河内村(近世)


群馬県>吉井町

江戸期〜明治3年の村名多胡郡のうち鏑【かぶら】川の右岸,東は西谷川(旧多胡川)から西は大沢川に及ぶ地域のおよそ東半分に位置する主に丘陵地からなり,その丘陵には縄文・弥生・須恵・土師などの包蔵地が広がる円墳7基の薬師塚古墳があり,そのうち穴塚は唐尺を用いた精巧な石室が開口するこの薬師塚古墳は町史跡第1号ほかに浅間塚もある(吉井町誌)永禄6年武田信玄が滅ぼした牧野丹蔵英一の河内城跡は現在住宅団地となっている川内村が上河内村と下河内村に分村して成立,下川内村とも記された旗本溝口氏領村高は,「元禄郷帳」213石余,「天保郷帳」も同高「旧高旧領」では上河内村と合わせて「川内村」と見え,高431石余文政年間の吉井宿組合村々書上帳によれば,高203石余,家数15・人数55(男33・女22),寺院は,高10石の朱印地を有する真言宗延命院と無住の真言宗弥勒院(同前)「上野名蹟図誌」によれば,上野山延命院は延徳2年草創,関東管領上杉顕定開基の寺院で,慶安2年幕府から朱印10石を与えられ,地頭溝口氏も土地を寄進,宝永2年雷火に全焼,のち明治3年にも再び全焼,同28年再興された幕末の改革組合村高帳では,吉井宿寄場組合に属し,高203石余,家数14なお吉井藩は版籍奉還に先立って領知を返上,当村など同藩領は明治元年岩鼻県に所属,同3年川内村の一部となる
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7283004
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ