宿廻村(近世)
江戸期〜明治22年の村名。勢多郡のうち。「郡村誌」によれば,もとは深沢の一部で,寛永年間頃までに上神梅村・下神梅村・宿廻村に分村。はじめ幕府領,寛文元年館林藩領,天和2年幕府領,文化9年旗本蜂屋氏領。村高は,「寛文郷帳」で133石余うち田方9石余・畑方123石余,「元禄郷帳」457石余,「天保郷帳」459石余,「旧高旧領」457石余。なお慶長3年の桐生領惣永辻改に「深沢組宿廻村」が見え,永高は26貫608文となっている(山田郡誌)。小地名に本宿・城・川口があり,細かくは登城・城下・駒見反など城下街を形づくる地名も多い。寺は天台宗正円寺,寺領15石余のほか本宿に高岸寺,川口に正安寺・西方寺があったが幕末期に廃寺となった。鎮守は赤城神社および天王宮で集落ごとに祀っている。城の諏訪神社は赤城大明神との併社である。8月27日の祭礼には相撲・芝居・盆おどりが行われ,特に草相撲は有名で遠来の力士が集まった。川口組城下は日光裏街道(銅山街道)と会津裏街道(沼田東入街道)の合流する地点で交通のにぎわったところである。幕末の改革組合村高帳によれば,水沼村寄場組合に属し,高442石余,家数102。明治4年前橋県,群馬県を経て,同6年熊谷県,同9年群馬県,同11年群馬県南勢多郡に所属。明治4年戸長役場が本宿に設置されたが,同16年上神梅・下神梅両村と連合し役場を上神梅村に移した。小学校は明治7年に水沼小学校支校として設立,同11年に渡良瀬学校と改称独立した。明治7年高泉村ほか136か村と宿廻村ほか5か村の入会境界争論は訴訟事件に発展し同13年に和解した。同22年黒保根村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7283199
最終更新日:2009-03-01