ケータイ辞書JLogosロゴ 白井保(中世)


群馬県>子持村

 鎌倉期〜室町期に見える保名。群馬郡のうち。地名としては鎌倉期から見え,「吾妻鏡」建久元年4月19日条所収の文治6年4月19日の源頼朝請文(国史大系)に「上野国白井河内分,去年冬使請取之畢,早可被尋請使」とあり,頼朝は朝廷からの造太神宮役夫工米の地頭未済の件について,当地の分は去年の冬に役夫工催使が受け取った旨を返事している。下って,元弘3年5月24日の内蔵寮領等目録(小河家古文書/香川県史資料編古代中世史料)に「一,上野国白井・河田山保,近代曽無其沙汰」とあり,当地は内蔵寮領であったが,当時は無沙汰になっていたことが知られる。下って,室町期の享徳4年頃と推定される年未詳6月19日の足利成氏の袖判のある岩松持国闕所注文(正木文書/県史資料編5)に「岩松右京大夫持国申,上野国白井保之内〈白井三河入道跡,同庶子等知行分,寺社共〉」と見え,岩松持国に安堵されている。この文書は享徳3年12月に足利成氏が上杉憲忠を殺して以降の享徳の乱の間に発給されたものと考えられ,岩松持国は成氏方として活躍し,成氏に対してたびたび闕所地の宛行いを要請しており,この注文もそのうちの1つであり,当保の在地領主白井氏は上杉方についたものと推定される。なお南北朝期頃成立したと思われる「神道集」卅四上野国児持山之事(県史資料編6)に「抑日本ノ人王卌代天武天王(ママ)ノ御宇ニ,伊勢ノ国渡会ノ郡ヨリ荒人神ト顕下,上野国群馬ノ郡白井ノ保ニ跡ヲ垂下児持山ノ明神ノ御事ヲ伝ヘテ承コソ心ロ詞ニモ及ハレ子」「郡(群)馬ノ白井ノ保ノ内武部山」と,同書卌二ニ上野国第三宮伊香保大明神事(同前)にも「群馬郡ノ白井ノ保ノ内,児持山ヘ入レ上リヌ」と見える。「双林寺伝記」によれば,「上州白井ハ昔時伊勢神明,御厨ナリシヲ,建保年中武家ヘ渡ル,其後長尾氏代々ノ領地トナル」とあり,康元元年長尾景煕が「上州白井荘」を賜い,同年11月に入部し,以後白井長尾氏といったと伝える。「松陰私語」第5(県史資料編5)によれば,文明8年暮,長尾景春が上杉顕定に背き,両軍が武蔵国五十子【いかつこ】(埼玉県本庄市)で対陣するが,景春が武蔵国鉢形城(埼玉県寄居町)に退いたため,上杉方の諸将も退陣し,「翌年正月十八日五十子諸将退陣,越州陣者白井張陣」と見える。長享2年6月8日,上杉顕定は足利政氏の支援をうけた上杉定正と武蔵国菅谷原に戦い敗れるが,この頃白井城には中条弾正左衛門尉(定資)が在城しており,同年と推定される年未詳8月11日の常泰(上杉房定)書状(山形大学所蔵中条文書/県史資料編7)に「就当城(白井城)之儀……永々陣労察之候」,同年11月16日の同書状(志賀槙太郎氏所蔵文書/同前)に「白井在城連日辛労之上,今度之出陣感悦之至候」,同3年と推定される年未詳3月24日の中条定資書状案(山形大学所蔵中条文書/同前)にも「去月七日之 御書,於当所白井,去十二日〈申剋〉拝見仕候」などと見え,延徳元年3月1日の上杉定正書状写(古証文2/同前)には「顕定至于白井被入馬候」とあり,この頃顕定が当地に来たことが知られる。前記の「双林寺伝記」長尾景春の項によれば,永正6年山内上杉憲房は越後の長尾為景と示し合わせて白井城を攻め落とし,大森式部入道をはじめ相・武の武士を在城させたが,翌7年顕定が越後で敗死し,憲房も白井城に退却,景春はこれを攻め落としたという。これについては永正7年と推定される年未詳8月3日の上杉憲房書状写(武家事紀/同前)に「国中(越後)如此之上者力不及,関東に入馬,白井ニ候処,長尾左衛門入道伊玄(景春)起逆心」と記されている。同10年正月日の長尾某禁制写(子持神社文書/同前)では,「上州群馬郡白井保子持山」に対する軍勢甲乙人の濫妨狼藉を停止させている。永禄8年2月吉辰日の武田信玄の上野に入るに際しての願文(守矢文書・山宮文書/同前)に「惣社・白井・岳山・尻高等之五邑,輙帰予掌握者」と述べている。この頃と推定される年未詳3月8日の武田信玄書状(真田文書/信濃史料補遺上)によれば,真田一徳斎(幸隆)の白井城攻略を賞し,箕輪城に移り,沼田の様子を報じるよう命じている。北上野の発智長芳宛の同10年と推定される年未詳卯月7日の山吉豊守書状(反町英作氏所蔵発智文書/県史資料編7)では,上州の情勢を伝えたなかに「雖然岩下・白井・厩橋口之御手ふさかり与申」とあり,上杉方にとって不利な情況であったことが知られる。同年11月25日の武田家朱印状(西光院文書/同前)によれば,小幡孫十郎に対して,「惣社の内大友郷二百貫文」を宛行ったところ,100貫文相違していたので,来春「白井領百貫文之替地」を宛行う旨を伝えている。同11年8月17日の武田家朱印状写(石北文書/同前)には「白井之内御料所分」とあり,当地内の御料所内の百姓の奉公を賞して500疋が下し置かれている。同13年3月22日の上杉輝虎判物(赤堀文書/同前)では,「厩橋領・惣社領・白井領」を除いて,現在の伊勢崎市・佐波郡東村・新田郡笠懸町などの郷村6か所を赤堀上野守に宛行っている。元亀2年と推定される年未詳9月26日の武田信玄書状写(長国寺殿御事蹟稿/同前)には,「白井長尾取出之地乗崩,数多討取候由」と真田昌幸に対しその功を賞している。同2年11月朔日の武田信玄定書(田沼文書/同前)では,某に対し新田方面での戦いを賞して西上州のうちの1か所を宛行うことを約し,その他「白井之内」籾子40俵を与えている。翌3年には当地をめぐって上杉謙信との戦いがあったらしく,同年と推定される年未詳3月6日の武田信玄書状写(甲斐国志所収文書/同前)に「一徳斎(真田幸隆)計策故,白井不日ニ落居,大慶ニ候」と,同年と推定される年未詳3月8日の武田信玄書状(真田家文書/同前)にも「以不慮仕合白井落居本望満足,可為同意候」とある。同年8月28日の真光寺(現渋川市)に宛てた武田信玄定書写(真光寺文書/同前)によれば,「〈上州白井之内〉一,如来寺分 八貫文 〈同〉一,八幡免 八貫文」などを真光寺に寄進している。下って,平等寺薬師堂の天正5年8月19日の年紀を有する仏壇右側奥柱墨書銘(平等寺薬師堂資料/新潟県史資料編5)に「関東上州□(白カ)井住人小淵又□(三カ)郎」と見える。天正7年7月,武田勝頼は武蔵・上野【こうずけ】に侵入し,厩橋城に入るが,同年11月12日の宇津木左京亮宛武田家定書(宇津木文書/県史資料編7)によれば,厩橋での軍忠を賞し,「一,百貫文 白井之内小幡分」などを宛行っている。天正10年3月,織田信長は上野国と信濃国のなかの2郡を滝川一益に与えるが,同年6月本能寺の変で信長が没すると,北条氏直は上野国に侵入,滝川一益は武蔵国に入り,小田原北条氏と神流【かんな】川に戦い敗れて伊勢国に帰国しているが,その直後の天正10年6月22日の北条家禁制(荒木文書/同前)は「白井村」に対して軍勢甲乙人の濫妨狼藉を停止する旨を伝え,百姓の帰住を命じている。同年9月21日の曽我式部宛北条高広印判状写(曽我鹿十郎氏所蔵文書/同前)では,帰順した曽我式部に対して「白井之内五貫文」など10貫文の地を宛行っている。翌11年と推定される年未詳2月19日の芳林(北条高広)書状(江口文書/同前)によれば,上杉景勝の臣上野国厩橋城将北条芳林は,上野国内の情勢を報じ景勝の出馬を促しているが,その中に「翌月(同10年4月)至于当国,氏政・氏直父子出張,白井表ニ在陣」とある。翌12年と推定される申の正月19日の真田昌幸判物写(長国寺殿御事蹟稿/同前)では,長井主税助に対し,「其方以計策,白井衆谷中へ引込,悉討取候条,弥忠節之至無比類候」と,小田原北条氏方であった当地の衆を破った功を賞している。この白井衆については,永禄4年に成立したと推定される年月日未詳の関東幕注文(上杉家文書/同前)に見え,「白井衆」として長尾孫四郎・外山民部少輔・大森兵庫助・神保兵庫助・高山山城守・小林出羽守・小島弥四郎・三原田孫七郎・上泉大炊助の名が見える。なお,歌人尭恵の旅日記である「北国紀行」によれば,文明18年美濃国から北陸路を経て武蔵国・相模国に至るが,その途中の「重陽の日,上州白井と云所にうつりぬ,則藤戸部定昌旅思の哀憐をほどこさる」と,また翌19年の「九月十三夜,白井戸部亭にて」とある(県史資料編7)。また万里集九の漢詩文集である「梅花無尽蔵」によれば,長享2年武蔵国から上野国・越後国を経て美濃国に帰るが,その途中当地にも立ち寄ったことが知られ,「上野之白井城亦管領顕定所守也」とある(同前)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7283231
最終更新日:2009-03-01




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