ケータイ辞書JLogosロゴ 神保村(近世)


群馬県>吉井町

 江戸期〜明治22年の村名。多胡郡のうち。はじめ吉井藩領,慶長15年幕府領。寛永年間旗本倉橋氏領,寛文4年幕府領代官中川氏支配,貞享元年から旗本溝口氏領となる。村高は,「寛文郷帳」で509石余うち田方316石・畑方193石余,「元禄郷帳」710石余,「天保郷帳」「旧高旧領」とも同高。文政年間では,溝口氏領685石余と朱印地仁叟寺領25石,除地に辛科神社免3反9畝余・八束観音免5反8畝余・薬師免1反余がある(吉井町誌)。寛文元年再建された辛科神社の宝物に,源頼朝寄進と伝える鎌倉期の懸仏と室町期出目上満作の大黒面がある。朱印地を与えられた仁叟寺は大永2年奥平氏創建と伝え,天正年間長根城主小幡氏が中興。天明元年8月13日当村神保三右衛門宅が襲撃を受け打ち毀されているが,慶応4年2月23日辛科神社に集結した世直し一揆勢は,関口半六家を襲い,やがて西上州へ波及して一大打毀騒動になった。この時仁叟寺住職学禅は鎮撫に奔走,勇僧といわれ,明治期に入って上知された寺領の払下げに努力している。払下げは明治8年禅海の代に成功している。なお同寺には奥平氏・溝口氏や鷹司吉井藩家老小林家の墓がある。文久元年11月皇女和宮の降嫁に際し,当村は人足132人・馬20疋が割り当てられ(同前),同3年11月改めで安中【あんなか】宿への御変革当分助郷を指定されている(中山道安中宿本陣文書)。幕末の改革組合村高帳では,吉井宿寄場組合に属し,高685石余,家数48。明治元年岩鼻県,同4年群馬県を経て,同6年熊谷県,同9年群馬県に所属。同22年多胡村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7283264
最終更新日:2009-03-01




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