ケータイ辞書JLogosロゴ 須賀尾村(近世)


群馬県>吾妻町

 江戸期〜明治22年の村名。吾妻郡のうち。はじめ大胡【おおご】藩領,寛永15年幕府領。寛文5年大柏木村を分けて2村になったという(郡村誌)。村高は,「寛文郷帳」287石余うち田方24石余・畑方262石余,「元禄郷帳」「天保郷帳」ともに325石余,「旧高旧領」325石余。当村は信州(草津)街道・大戸通り沿いの村で宿場がある。もとは西方20町の場所にあったが,元和4年現在の三本木平に移転した。当宿は信州飯山・須坂・松代3大名の廻米,信州・西吾妻方面の物資,善光寺詣や草津入湯客の往来で繁栄。中山道の脇往還として3〜10月には人足10人,馬5匹を備えていた。勘左衛門が本陣・問屋を勤め,他に脇本陣がある。元和10年の屋敷帳では北町22軒・南町17軒の地割り(坂上村誌),明治2年の絵図には54軒が載る。村西に分岐点があり,左は標高1,380mの万騎峠越えで狩宿関所を経て鎌原宿,右は須賀尾峠越えで長野原を経て草津温泉への道で,現在ももとの宿には貞享年間の古い道標が残る。文化5年小林一茶が当地を訪れ「草津道の記」に記している。宝暦10年の割付状では米12石余・永31貫余,安永9年の皆済目録によれば,米35石を37両の計算で金納し,一切の納入が永50貫余,寛政8年の村明細帳では,名主2が年番勤務で,給分は高役1町5反歩夫銭と4両を村民が高割で負担。文政10年の村明細帳では戸数110(同前)。嘉永5年から15年間中山道軽井沢宿で代助郷を勤め,文久元年の和宮降嫁の際には人足75・馬6を負担(原町誌)。大戸関所付村のため,将軍の上洛や日光社参の際は番小屋を設け固め人足で詰めたり,普請の時は夫役を課せられた。鎮守は諏訪明神(現諏訪神社)で,源頼朝が浅間狩りの際に参詣したという伝説があり,3代将軍徳川家光の時に朱印高7石を賜る。寺は原町善導寺末浄土宗古宿山安楽院定善寺があり,他に大峰権現もあった。本宿村の御巣鷹山裾野甘酒原の入会秣場利用をめぐり承応2年境論が起きた。宝永3年から秣場利用の草銭永2貫を納める。宿は文化6年に53軒が焼失し,正徳2年・安永3年・文化11年にも大火が発生した(坂上村誌)。幕末の改革組合村高帳によれば,大戸村寄場組合に属し,高318石余,家数118。明治元年岩鼻県,同4年群馬県を経て,同6年熊谷県,同9年群馬県に所属。同22年坂上村の大字となる。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7283275
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ