ケータイ辞書JLogosロゴ 須川(中世)


群馬県>新治村

 戦国期に見える地名。吾妻【あがつま】郡のうち。須河とも書く。天正8年5月6日の森下又左衛門宛真田昌幸定書(本多夏彦氏所蔵森下文書/県史資料編7)には,猿ケ京を攻略した時に宛行うことを約した所領として新屋敷・布施・高性寺分・今井垣戸・本領などがあげられ,異筆でこれらを「須河之内」としてある。同年5月19日の真田昌幸条書(吉川金蔵氏所蔵文書/同前)には「一,須川衆,今度抽忠節候十三人拘候地十三貫文之所」と見え,当地の地侍衆が給分を得て真田に仕えていたことが知られる。同10年と推定される年未詳3月27日の矢野綱直書状(上杉家文書/同前)によれば,倉内城の開城に伴い沼田を出た上杉家家臣について「少々之御人数給候ハゝ,須川ニ屋敷を立作させ申度候」と,当地に居住する手だてを講じるよう栗林就頼に依頼している。なお年未詳3月晦日の北条氏直判物写(赤見文書/同前)によれば,中山城主赤見山城守に預け置かれている57人の侍の中に「須川衆」として新保吉之助・同八右衛門・奈良左近・宝苑坊の4人の名が見える。天正11年と推定される年未詳7月15日の林弾左衛門宛真田昌幸判物写(吾妻記/県史料集3)には,同年の真田と小田原北条氏との合戦における戦功に対して「於須河・原・辻分,壱町畑之所相出候」と見え,当地などが宛行われている。同14年9月7日の真田昌幸判物写(同前)では真田氏の中山城攻めに従った林弾左衛門に対し「於須河弐貫文之所重て可出之候」と見え,当地内の所領が加増されている。長享年間に成立したと推定される「旅宿問答」には「池ノ原ヲモ打過テ,須河ノ湯ニソ着ニケル,旅クツロケノ湯ニ入テ,又調ヘテ行程ニ」とあり,当地に温泉があったことが知られる(続群33上)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7283290
最終更新日:2009-03-01




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