ケータイ辞書JLogosロゴ 多比良郷(中世)


群馬県>吉井町

 戦国期に見える郷名。多胡【たこ】郡のうち。長享2年9月4日の年紀のある「真言宗臨終用心」の奥書(史料蒐集目録/大日古8-25)に「於上州多比良光明寺,教宥以御本写畢」とあり,当地の光明寺で書写されている。また大永6年正月の年紀のある「轍塵抄」巻3の奥書(昭和現存天台書籍綜合目録上)にも「於上州多比良撰之」と見え,天文5年8日(月か)の年紀を有する写経奥書(長野佐久氏蔵/県史資料編6)にも「生所多比良居住忍保□意」とある。下って,元亀3年6月9日の武田家定書(群馬県庁所蔵文書/県史資料編7)には「一,多比良 弐百廿貫文」と見え,高山彦兵衛に対し当地などの代官を命じている。また同年月14日の武田家朱印状(高山徳樹氏所蔵文書/同前)では,同じく高山彦兵衛に対して,東平井市について「一,多比良領・高山領之地下人,御分国之内何領中ニ居住候共,致還附,可令耕田畠之事」と百姓の還住を命じている。同年月19日の武田信玄定書写(新編会津風土記所収浦野文書/同前)によれば,浦野新八郎に対し替地として「多比良領之内六拾貫文」を宛行っている。下って,天正4年5月5日の武田勝頼定書(延養寺文書/群馬県古城塁址の研究補遺篇上)には「上野国延養寺之事,為始多比良郷内普賢寺光明寺諸末寺出仕,任旧例不可有相違者」と郷名で見え,当郷内の普賢寺・光明寺が延養寺の末寺であることを認めている。同6年12月15日の武田家定書(新編会津風土記所収浦野文書/県史資料編7)では,浦野民部助に対し,「上州多比良之内」などの竹木は御城の御用以外は切り取ることを禁止している。下って,天正13年11月3日の上杉景勝充行状(矢沢文書/同前)によれば,矢沢薩摩守に対し「一,平之事」などを宛行っている。なお,天正17年頃と推定される年月日未詳の小田原一手役書立写(安得虎子10/神奈川県史資料編3古代中世3下)に見える「大藤〈たいら,式部〉」は当地と思われるが未詳。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7283395
最終更新日:2009-03-01




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