ケータイ辞書JLogosロゴ 滝沢村(近世)


群馬県>赤城村

 江戸期〜明治22年の村名。勢多郡のうち。前橋藩領。元禄13年の三原田村古絵図写によれば,貞享2年三原田村から分村した(上三原田区有文書)。検地は元禄2年の新田水帳に,寛文4年〜天和3年とある。村高は「元禄郷帳」113石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに145石余。元禄2年の本田水帳によると,田7町余・畑5町余の計12町余。元禄13年の三原田村古絵図写では家数22(同前)。文政12年の諸職人元帳(勢多郡誌)では屋根ふき・桶師各1。諸田・桜井・中島・岩田および永井2氏は当村の六屋敷と呼ばれ,村の草分けといわれる。諸田氏はイッケ(同族集団)の結合が固く,松山1町を共有し,氏神(飯綱様)の祭祀を共同で行っていた。文政6年日照り続きのため,見立村・三原田村前橋藩領とともに三原田村淀藩領と水論,翌年3か村側が和解を申し入れ内済となった。文政8年にも三原田村淀藩領と用水路埋め立て訴訟を起こした。湧玉(湧水),およびその下流滝沢川をもちながら,その水は下流の村の用水に用いられ用水不足であった。明治4年前橋県,入間県を経て,同6年熊谷県,同9年群馬県,同11年群馬県南勢多郡に所属。同22年横野村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7283471
最終更新日:2009-03-01




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