ケータイ辞書JLogosロゴ 玉村御厨(中世)


群馬県>玉村町

 鎌倉期〜室町期に見える御厨名。那波郡のうち。保名でも見える。建久3年8月日の伊勢大神宮神主請文(神宮雑書/県史資料編6)に「玉村御厨〈内〉○給主同(内)宮一禰宜成長〈件御厨去長寛年中建立,国司奉免了〉供祭物 上分布三十端」とあるのが初見で,当御厨は内宮領の御厨で,平安末期の長寛年間に建立され,給主は内宮一禰宜荒木田成長,供祭物は上分布30反であった。なお延文5年成立の奥書を有する「神鳳鈔」には「玉村御厨〈百廿五町〉」とあり,「内宮布三十段」の朱注が記されている(神宮文庫蔵/同前)。仁治年間以前と推定される年月日未詳の某書状断簡写(仁治御仮殿遷宮記裏文書/同前)に「造 外宮料上野国……玉村御厨・邑楽御厨等日色(食)米事」と見える。永仁7年卯月17日の京尊旦那譲状(熊野那智大社文書/同前)には「永譲渡檀那事 合 上野国玉村保住人讃岐公」と保名で見え,当保の讃岐公の檀那職が玄善房に譲られている。当御厨の北半分にあたると推定される北玉村は,弘安8年の霜月騒動後の弘安9年正月23日の北条氏公文所奉行人奉書(円覚寺文書/同前)によって円覚寺の塔頭仏日庵に寄進されており,当御厨の地頭職を安達氏が保持していたものと推定され,「吾妻鏡」「蒙古襲来絵詞」には当御厨の開発領主で安達氏の家人となった玉村氏が見える。同村については南北朝期の建武4年正月26日の資房・寂心連署奉書(帰源院文書/県史資料編6)によれば,「伊勢太神宮御領上野国玉村御厨領主荒木田氏女并盛延等」が訴えた「当御厨内北玉村押妨狼藉事」について,円覚寺雑掌に対し早く陳弁するよう命じている。また同年7月10日の足利直義御判御教書(円覚寺文書/同前)には「上野国玉村御厨内北玉村郷」と見え,当御厨内北玉村郷などの地頭職を円覚寺長老道通に安堵している。なお,正平7年2月18日の円覚寺領文書渡目録(同前)には「六通 玉村領家年貢返抄」と見えるが,これは同村に関するものであろう。文和3年卯月8日の年紀を有する法蓮寺多宝石塔銘(上毛金石文年表)には「上州玉村本木郷法花別時結衆名帳」とある。永和3年12月11日の上野国および円覚寺宛ての2通の官宣旨(円覚寺文書/県史資料編6)では,円覚寺住持大虚契充の要請に任せて,「上野国玉村御厨内北玉村郷」など円覚寺領に対する勅事・国役などの停止を命じている。下って応永26年12月17日の鎌倉公方足利持氏御判御教書(同前)では,「上野国玉村□□□□(御厨内北)玉村」などの地頭職を円覚寺に安堵している。応永15年以前と推定される年月日未詳の足利義満袖判長福寺領目録案(久我家文書/県史資料編7)には,京都長福寺の寺領として「一所 上野国玉村御厨内神人村半分事」が見える。応永32年と推定される年未詳11月16日の比丘亮託・思明連署書状(金沢文庫文書/同前)の封紙のウハ書に「〈玉村〉比丘思明」とあるのは当御厨のことと考えられる。この書状は当御厨の状況を報告したもので,この年の風水害によって打撃をうけた農民が年貢の減免などを要求して,年貢の上納拒否などの闘争を展開しており,御厨内の「上手」「佐谷間」「福島」「南玉村」「下手」の地名が見え,年貢が銭と米で納められており,米年貢の未進があったことが知られる。現在の玉村町一帯に比定される。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7283562
最終更新日:2009-03-01




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