ケータイ辞書JLogosロゴ 樽村(近世)


群馬県>赤城村

 江戸期〜明治22年の村名。勢多郡のうち。はじめ前橋藩領,明和4年幕府領を経て,文化8年から旗本大久保氏領。検地は元禄2年の新田水帳によれば,寛文4年とみられる。村高は,「寛文郷帳」488石余うち田方321石余・畑方166石余,「元禄郷帳」同高,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに521石余。明和5年の村銘細帳によれば,高506石余・反別38町余(田16町余・畑21町余),年貢は検見取であったが,享保6年から1反につき2斗5升の減免,元文3年から定免法,ほか,高役掛10石につき5貫文を納め,田方は穀納,畑方は金納。諸役としては1か所の御林保守,年貢地内の御蔵番を村中交替で,利根川の川除普請に年間2,120人の人足を出し,天明6年大洪水があり,川除普請には金28両余・人足1,391人を要した。村内の土橋3,11か村の堰,見立村内にある堤1か所の普請は用材・人足賃とも領主持ち,また沼田藩主の参勤の際だけ溝呂木宿へ加助郷人馬を出し,天保9年巡検使通行にあたっては代助郷村として人足90人・馬10疋を出し,村役人は名主1・組頭4,給分として名主は公儀より800文,村中より米6俵(天明8年金3両),組頭は村中から1貫500文を給され,ほかに定使1,村中から麦6俵を給された。明和5年の家数61(本百姓)・人数277(男155・女122),馬17(弱馬7・肥ふみ10)。天明8年の家数62(うち本百姓45)・人数200。宝暦2年の人別帳による家族平均4.6人,最高10人が1,最低1人が2,4人家族が18,諸職としては鉄砲猟師6・酒屋1・作間商人1(結城への蚕種商)。利根川畔には五料以北唯一の河岸があり,須田与兵衛・石田九右衛門(酒造業)が材木商・筏問屋を営み,農間筏乗を業とする者が十数人あった。沼田藩真田氏改易にまで及んだ両国橋材の売買はこの両人も扱い,延宝9年の材木売渡証文が須田胤与氏宅に残る。享保9年河岸権利問題で隣村宮田と訴訟が起こり,翌年宮田河岸が認められ決着した。水利の便がよく,水田耕作に適した。半夏生前後に田植,肥料には播種してあった大豆のすき入れ,青草・干鰯が,畑には青草・豆粕・小糠が用いられた。青草は赤城山大野の入会地で採取,薪木も同地で採取。年貢地内に桑を少し植え付け,養蚕が行われ,産繭は年約30両。出荷は利根対岸の白井村と共同で設けた二本松の横渡舟で白井宿へ。横渡舟の修理は村持ちで行われた。寛政12年の修覆費は1分2朱余であった。幕末には須田荘重郎が醤油醸造業をはじめた。寺は,曹洞宗赤城山正念寺,宝暦2年の宗門改帳によると檀家61。字八ツ沢に石田九右衛門創建と伝える観音堂があり,郡西部五十五番の札所の1つとしてにぎわった。八ツ沢は参道橋下で逆川(北流)となるので,橋下をくぐると諸病が快癒すると伝えている。昔,切支丹信徒小室村孫左衛門の出作地があり,処刑後村で共同耕作したと伝える。幕末の改革組合村高帳では白井村寄場組合に属し,高506石余,家数58。明治元年岩鼻県,同4年群馬県を経て,同6年熊谷県,同9年群馬県,同11年群馬県南勢多郡に所属。明治12年樽村ほか2か村連合を角田喜右作が連合戸長となり結成し,正念寺を戸長役場とした。「郡村誌」によれば,税地の反別54町2反余うち田20町8反余・畑25町余・宅地6町2反余・竹林1町4反余など,馬24,物産は米257石余・麦233石余・小麦57石余・大豆26石余・小豆13石余・蕎麦15石余・桑920駄・繭95石・木綿15貫・製物生糸70貫・醸酒70石・味噌925貫・醤油50石,また生糸105貫・米350石・醸酒70石・味噌320貫・醤油50石は輸出され,民業は男は農桑業53戸,女は養蚕・製糸業90人。明治15年の戸数49・人口265。幕末から須田与兵衛は江戸の中居屋重兵衛と姻戚関係があり,それを頼りに蚕種輸出していたが,明治7年大蔵省から認可を受け輸出している.。明治15年当時の蚕種産高170枚。明治7年清六新道(分郷八崎〜下箱田)が,同9年鳥山新道(棚下〜津久田)が開削され,清水越往還が利根東岸を通るようになると,村内往還沿いに旅宿・荒物商・呉服商を営む者があらわれ,一時活況を呈したが,同18年綾戸隧道の開削により,清水越往還が利根西岸を本道とするに至りさびれた。明治12年宮田学校から分離して正念寺に樽学校が開校,生徒男18・女11,教員2,授業料は1人10銭。同16年再び宮田学校に合併。同22年横野村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7283571
最終更新日:2009-03-01




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